『インビジブル』が終わった。真犯人の正体はすでに前回で明かされており、最終回の焦点は様々な策を練って志村(高橋一生)を追いつめる黒幕にどう打ち勝つか、に絞られた。最後となるこのレビューでは、『インビジブル』が何を描いたドラマだったかについて語らせてもらいたい。

正義も悪も"インビジブル"。そんな時代で生きる上で大切なこと

「志村さん。俺たちは何を信じればいいんですか」

そう磯ヶ谷(有岡大貴)は志村に問いかけた。この台詞が、最終回全体のキーワードだろう。志村の言う通り、犯人は猿渡(桐谷健太)なのか。それとも猿渡の言っていることが正しいのか。この世には、何を信じればいいのか、誰を信じればいいのか、わからないことが多すぎる。

だが、志村は揺るがない。

「俺は自分の正義を信じてる」

思えば、第1話からずっとそうだった。安野(平埜生成)殺しの手がかりを掴むべく、おそらく裏社会の者であろう男を容赦なく殴りつけ脅迫する。志村は目的を達成するためなら手段を選ばない男だった。でもそこには、いつも自分の正義があった。だから、いくら猿渡に諌められても、捜査一課から追いやられても厭わなかった。

悪が"インビジブル"(不可視)であるように、正義もまた"インビジブル"だ。何が正義で、何が悪かを見極めるには、自分の中にブレない正義を持つしかない。

僕たちの日常には膨大な情報が溢れていて、ある一面から見たらとんでもない悪に見えたものが、別の一面から光を当てると善良なる正義に映ることもよくある。だから、断片的な情報だけを見て、簡単に踊らされてはいけない。自分の目で真偽を確かめ、自分の良心に従い判断をくださなければ、容易く誰かにコントロールされてしまう。この複雑で困難な時代を生きる上で大切なことを『インビジブル』は描いていた。

「お前らはどうだ?」と志村に投げかけられた磯ヶ谷(有岡大貴)や五十嵐(堀田)はそれぞれ自分の正義に問うた。そして、志村を信じると決めた。そこには、志村と過ごした日々が当然よぎっただろう。"演出家"の事件を通じて、磯ヶ谷は志村に刑事の覚悟を教えてもらった。犯人を捕まえるためなら、どんな危険も顧みない。その執念と信念に感化された。だから、磯ヶ谷は地位もキャリアもある猿渡より、志村を信じようと思った。他の刑事たちも、きっと。

率直に言うと、ここがこの作品の弱いところでもある。全10話を通して事件は描けていたが、人は描けていなかったように思う。組織のはみ出し者に見えた志村が、揺るぎない正義感でチームの信頼を獲得していく様子が、あまり物語からは伝わってこなかった。五十嵐もHPの人物紹介では志村のことを慕っていると書かれているが、本来はそれが物語で浮き出てこなければいけないのに、残念ながらそういう印象がそれほど鮮明には残らなかった。

もうちょっと各話のエピソードと捜査一課の面々をリンクさせながら展開できていれば、"リーパー"探しの推理も盛り上がったし、キリコ(柴咲コウ)を取り囲む包囲網が、実は猿渡に向けられたものだったという逆転劇のカタルシスが増していたと思う。志村とキリコ、猿渡といった主要人物以外は、ややモブっぽい扱いだったのは、こうした展開になるならもったいなかった。

ただ、そんな課題はありつつ、作品のメッセージそのものは当初から一貫しており簡潔だった。この世には、様々な悪意が潜在している。その悪意は、いつ自分たちに牙を剥いてくるかわからない。正義の顔をしていた人が、自らを脅かす悪だった、ということも珍しくはない。そんな理不尽とどう対抗していくのか。それを『インビジブル』は志村という人間を通して描いたドラマだった。

強く印象に残った高橋一生の引き算と、柴咲コウの悲しい目

最終回は桐谷健太の狂気の演技が展開を牽引したが、その下支えになっていたのはやはり高橋一生の最後まで抑制を効かせた演技だったと思う。狂気の演技は、解放になる。解放に、解放の演技をぶつけると、画面全体がやかましく、過剰気味になる。だから、志村は猿渡の最終対決でも決して声を荒げたり、みだりに感情を放出しなかった。猿渡に発砲したときも、その表情は落ち着いていた。猿渡に手錠をかけたときでさえ、あくまで淡々としていた。

あれはきっと、大事な後輩を殺された人間としての行為ではなく、あくまで刑事としての行為だったからだと思う。感情は、時に正しさを見誤る。感情は、時に争いを生み、悪を暴走させる。だから、3年分の想いはあえて出さず、いち刑事として犯人と向き合った。万感の想いは、自分の手錠を捨て、安野の手錠をかけるという行為でじゅうぶん表現できると信じて。このあたりの引き算のうまさ、演技プランの巧みさは、やはり高橋一生。暴走刑事だった志村の成長までも盛り込んで、最後はクールな印象を強く観る者に植えつけた。

すべての清算を終え、ラストは志村とキリコの2人きりのシーン。場所は、キリコが初めて登場したときと同じ渋谷の街を見下ろす屋上だ。あのとき、サングラスを外したキリコは真意の読めないミステリアスな目をしていた。でも今見ると、あの遠くを見据える目は、これから弟が巻き起こす犯罪計画と戦う目だったとわかる。そして、最終回で同じ場所に立ったキリコは悲しい目をしていた。弟を救えなかった姉の無念と無力感があの目に込められていた。キリコの心の中には、いつも弟があったのだ。

終わってみると、キリコはとても人間らしいキャラクターだった。たくましさと悲しさという相反する要素がキリコには共存していた。これを見事なバランスで成立させていた柴咲コウもやはり手練れであると唸るしかない。実に見応えのあるコンビだった。

あのラストが示すもの。ひとりだけれど、ひとりきりではない

そんな2人だが、最後の会話を終えると、キリコはいなくなっていた。彼女は"見えざる存在"に戻ったともとれる。でも正義も悪も"インビジブル"(不可視)であるとしたら、そもそもキリコは正義と悪の混在する父親の正義の部分を受け継いだ人物。正義の象徴ともいえる。そして、志村は常に己の正義を秘めた男。だから、キリコは志村の中にいるというふうにも感じられた。

「この中にも見えない悪がまぎれこんでいる。見極めていかないとならない、この先も」

あれは決意表明だ。志村は、自分の中にある見えない正義(キリコ)を信じながら、悪と戦っていく。ひとりだった志村の背中が寂しくは見えなかったのは、彼がひとりきりではないからかもしれない。そして、そんな見えない部分をあれこれ想像するのがドラマの楽しさだと、『インビジブル』は僕たちに語りかけている。

◆配信情報
『インビジブル』
動画配信サービス「Paravi」で全話配信中。