「2・1・5」が通じたら金八フリーク
いきなり質問。ある会話の途中で「僕は2・1・5の順かなぁ」というフレーズが出て来たら、これ、何の話だか分かります?
――難しすぎますね。じゃあ、ヒントを出しましょう。――「金八先生」。ここで「あっ!」となった人は、もう立派な金八フリーク。そう、数字は『3年B組金八先生』のシリーズを表しており、「2・1・5」とは、第2シリーズ・第1シリーズ・第5シリーズのこと。つまり、前述のフレーズを訳すと「僕は、『金八先生』なら、第2・第1・第5シリーズの順で好きかなぁ」という意味になる。
もちろん、「いや、私は1が一番」「自分は5と6」「不遇の3こそ再評価されるべき」なんて、どの『金八』シリーズに思い入れが強いかは、人それぞれ。総じて、自分が十代の頃にリアルタイムで接したシリーズに惹かれる傾向があるようだ。
考えてみれば、『金八先生』の第1シリーズが始まったのが1979年で、シリーズ最後となるスペシャル版の「ファイナル」が放送されたのが2011年。その間、実に32年に渡って8つのレギュラーシリーズと、12本のスペシャル版が制作されたワケで――これは、幅広い年代で各々が推すシリーズが異なるのは当然のこと。僕自身は、中学時代にリアルタイムで見た第2シリーズが、やはり一番思い入れが強い。
学園ドラマに「リアリティ」を持ち込んだ金字塔
それにしても、何ゆえ『金八先生』は32年間にも渡って、お茶の間の支持を得られたのか? 思うに、それ以前の学園ドラマと、『金八先生』の間には、大きな相違点が1つあるんですね。それは――リアリティ。
『金八』以前、いわゆる"第一次学園ドラマブーム"と呼ばれる日本テレビ系の日曜夜8時のドラマ枠――1965年の『青春とはなんだ』(日本テレビ)に端を発する一連の学園ドラマは、高校の落ちこぼればかりを集めたクラス(大抵、2年D組)を舞台に、型破りな熱血教師(原型は夏目漱石の「坊っちゃん」だろう)が、生徒たちをラグビーやサッカーなどの部活動を通じて更生させる物語だった。そこには古き良き青春ドラマのプロットがあり、少年ジャンプ的な「友情・努力・勝利」の方程式があった。
対して、『金八先生』は時代と並走するリアルな学園ドラマだった。同ドラマの原作者で脚本家(メインライター)の小山内美江子さんは、毎シリーズ、執筆前に綿密な取材を重ねたという。
例えば、第1シリーズで話題になった「十五歳の母」にはモデルとなった少女がいた。第2シリーズの放送中は校内暴力の最盛期で、同シリーズで描かれた「腐ったミカン」の話はそれを反映したものだった。また、第4シリーズでは「イジメ」、第5シリーズでは「学級崩壊」、第6シリーズでは「性同一性障害」を取り上げるなど、いずれも時代に即したリアルなテーマを物語に落とし込むことで、長きに渡って人気を維持できたのである。
『金八先生』ができるまで
『3年B組金八先生』の第1シリーズは、1979年10月26日のスタートである。放送枠は金曜8時。文字通り"金八"枠だった。何ゆえ、金八枠で『金八先生』が始まったのか。そこに至る経緯は、先の小山内美江子さんの著書『さようなら私の金八先生:25年目の卒業』(講談社)に詳しい。以後、ポイントを引用させてもらう。
元々、TBSの"金八"枠は長年、局内で鬼門と呼ばれていたという。裏に強敵『太陽にほえろ!』(日本テレビ系)が鎮座し、何をやっても視聴率が取れないからだ。1978年には、かつて同局で大ヒットしたドラマ『七人の刑事』を枠移動して復活させるも――視聴率が振るわないばかりか、同じ刑事ドラマ対決で惨敗するという屈辱を味わう。結果、同ドラマは1979年秋をもって放送終了が決定する。
そこで、その終了に先立つ79年6月、当時のTBSの中村紀一制作局長は、「ポーラテレビ小説」などを手掛ける柳井満プロデューサーにこう命じたという。「この際、視聴率にこだわらなくていいから、世間の目を引くような新しいドラマを作れないか。脚本は小山内美江子さんで――」。
そう、小山内美江子さん。ここで、当時の小山内さんの立ち位置を解説しておこう。御年49歳の売れっ子脚本家の一人であり、ちょうどNHKで放送中の"朝ドラ"、連続テレビ小説『マー姉ちゃん』の脚本を執筆中だった。同ドラマは『サザエさん』の長谷川町子さんの自伝が原作で、熊谷真実さんや田中裕子さんらが出演し、大いに人気を博していた。
ちなみに、小山内さんと同世代の脚本家に、向田邦子さんや早坂暁さん、少し下に山田太一さんや倉本聰さんらがおり、70年代後半のテレビドラマ界は、彼らが注目を浴びた時代でもあった。世に言う"脚本家の時代"である。
そんな小山内さんの起用にあたって、柳井プロデューサーが指名されたのは、TBSの「ポーラテレビ小説」枠で、過去に何度も小山内さんと仕事をした、勝手知ったる仲だから。しかし当初、小山内さんは執筆中の『マー姉ちゃん』のスケジュールを理由に、この要請を一旦断る。だが、ずっと心に引っかかるものがあった。それは、柳井プロデューサーが口にした「駄目でモトモトじゃないですか」という口説き文句だったそう。
実は、小山内さんの胸の内には、かねてより温めていた企画があった。そこで、7月に柳井プロデューサーから再度打診された際には、「少し考えさせてほしい」と前向きな姿勢に転じる。「駄目でモトモトなら、この際、やりたいものをやってみようか」と、彼女の胸の中でフツフツと新企画が沸き上がりつつあったのだ。
息子さんと旧友たちが企画協力
小山内さん曰く、その企画は、高校1年になる一人息子の中学3年間を通して見えたものだという。本来、生きる過程として中学生活で身に着けておくべきものが、受験戦争に追い立てられる余り、欠落していないか――という母としての思い。実際に中学生を育てた母親だからこその"視点"だった。
そこで、当事者である息子さん(現在、俳優や映画監督として活躍中の利重剛さん)にその思いを相談すると、母親の新しい仕事の企画に賛意を示しながらも、「一つだけ注文がある」と、こんな答えが返ってきたという。
「いわゆる学園モノというんじゃないのをやってよ。中学生が見て、ウン!これは僕たちのドラマだ、そう思うようなものを書いてよ、つくりものじゃなくてさ」
「だから、協力してほしいんだ」
「するともサ」
――かくして、親子二人三脚による、企画のリサーチ作業が始まった。
それは、剛さんが中学時代の旧友たちに声をかけ、母親とのグループインタビューの機会を作るというもの。命題は、最近の中学生は何を悩み、考えているのか――。高校1年の彼らにしてみれば、わずか半年前のことである。社交的な剛さんの巧みな誘導もあり、旧友たちは中学時代のリアルな悩みや体験談をリラックスして語り始めた。また、小山内さんも聞き上手で、些細な悩みにもいちいち頷いてくれるから、彼らも話すことが段々と快感になった。
そんな"お茶会"が日曜日の度に数回行われ、次第に小山内さんの頭の中で企画の骨子が固まっていった。やがて全体像が見えたところで、柳井プロデューサーに新ドラマのプロットを提案した。
「中学3年生は、高校受験という、人生で初めて選別を受ける年代です。私は、この3年生たちに、選ばれるな、自分の人生だから選んでいけ、そう訴えたい。これは応援歌です」
脚本家がこれほど情熱を傾けて提案してくる企画に、元より柳井プロデューサーに異論はない。
「やりましょう。ところで、キャスティングで何かお望みはありますか」
「先生役には、鉄矢さんを交渉してください」
「鉄矢さんって......あの武田鉄矢さん?」
「ハイ」
学生時代、教師を志望していた武田鉄矢
これまで、小山内美江子さんの作品に武田鉄矢さんが出演したことはなかった。面識と言っても、あるパーティの席で挨拶したくらいである。だが、小山内さん曰く、その時のインパクトがあまりに強烈すぎたという。
それは、TBSが主宰する新年パーティの席だった。小山内さんが友人の向田邦子さんと立ち話をしていたところ、武田鉄矢さんが挨拶にやってきた。その少し前、彼は向田さんの書くドラマに出演していた。その際、向田さんが冗談交じりで「貴方はいつも、体全体でものを表現しようとしていらっしゃるわネ」と問いかけたところ、武田さんは「ハイ、実は私、昔、先生になるつもりでおりましたので」と答えたという。
そう――実際、武田鉄矢さんは福岡教育大学に身を置いたことがある(7年で中退)。専攻は障害児教育で、一時はろう学校の教師を目指して教育実習にも励んだという。
後日、武田さんから柳井プロデューサーを通して、小山内さんのもとへ返事が来た。「母親から、いまでも、先生になっとればよかったのにと言われ続けています。だから、一度は先生の役をやってみたいと思っていました」――主役、決定である。
髪を伸ばす哲学があれば、切らなくてもいい
脚本の執筆に入る前、小山内さんは柳井プロデューサーと共に、武田鉄矢さんと会食する機会を得た。ドラマに対する互いの気持ちを意思統一するためである。挨拶もそこそこに、小山内さんはこう切り出したという。
「あの、たいへん素朴な疑問だけど、貴方のその髪、伸ばしているのには、何か哲学があるんですか?」
「えっ、いえ、切ってもいいンです。いや、むしろ今度が切るチャンスかもしれません」
「ううん、別に切らなくたって構わないの。でもネ、武田鉄矢ならその髪でもいいけど、学校の先生となると、誰かが、私みたいに疑問を持つでしょう。その時、もし貴方に哲学があるのなら、それを聞きたいし、伸ばしてもおかしくない理由があれば、それは生かしたいと思って」
それを聞くなり、武田さんはスッと立ち上がり、髪を両手で後ろに束ねて、こう返事をしたという。
「こうやるとボク、坂本龍馬に似ているでしょう?」
そこから先は、武田さんの独演会だった。食事も忘れ、いかに自分が龍馬に心酔しているかを熱く語り、龍馬になりきって、とうとうと日本の行方をユーモラスに案じ始めた。その様子を柳井プロデューサーと爆笑しながら眺めつつ、小山内さんは心の内で「これでいい。自分の哲学をわかってもらうために、なりふり構わず熱演する人物像。これが私の求めている教師像だ」と、改めて武田さんの起用を確信したという。
舞台は川下の下町がいい
企画の大枠が固まると、今度はロケーション探しに入った。ドラマの舞台となる街をどこに置くかを決める、重要な案件である。
とはいえ、小山内さんには腹案があった。それは川の下流、それも広い河川敷のある下町がいいと。小さな家々が密集し、距離感が近い分、人情もある。小山内さん自身、横浜は鶴見川の下流の生まれで、下町の持つ世界観に馴染みがあった。
東京で広い河川敷というと、多摩川と荒川がある。わずかにTBSのある赤坂から近いという理由で、小山内さんと柳井プロデューサーは荒川へ向かった。いくつもの橋を見て回り、2人が車を停めて「ここだ」と降り立ったのが、荒川の堀切近くの土手だった。
下町は、猫の額ほどの土地も大事にする土地柄である。学校の校庭もあまり広くない。となると、生徒たちが部活動で走り回るには校庭だけでは足りず、恐らく学校近くの土手に、第二運動場とも言えるグラウンドが必要となる。できれば、あまり整備されたものではなく、草野球ができる感じの――。
2人が降り立った土手の下には、まさにその広さの敷地があった。そして実際――土手から続く家々の先には、足立区立第二中学校があった。校庭はさほど広くない。2人の予想通りだ。そして交渉の結果、校内・校庭・校舎全景の撮影のOKが出た。以後、『金八先生』シリーズにとって重要な舞台となる「区立桜中学校」のロケ地である。
選考後にかかってきた1本の電話
かくして、『金八先生』の舞台は整った。小山内さんは本格的に脚本の執筆に入り、柳井プロデューサーは共演する先生たちのキャスティングと、3年B組の生徒たちの選定に入った。生徒たちは東京のいくつかの児童劇団に声をかけ、「中学3年に見えそうな子」という条件で候補者を集めてもらった。写真選考と面談を経て、晴れて30人の生徒が決まった。
ところが――そんな矢先、1本の電話が柳井プロデューサーのもとへかかってきた。相手はジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長である。どこで聞きつけたのか「ウチにも若い子が10人くらいいるので、会ってください」という。柳井プロデューサーは「選考は終わりました」と断ろうとしたが、相手があまりに懇願するので、会うだけ会うことにした。
――その10人の中にいたのが、田原俊彦・近藤真彦・野村義男だった。ドラマ『3年B組金八先生』の第1回放送が始まる、およそ2ヶ月前の話である。
さて、次の【後編】では、『金八先生』の第1シリーズを通して、手探りで始まった同ドラマがいかにしてお茶の間に支持され、そして宿敵『太陽にほえろ!』(日本テレビ系)の背中を捉え、やがて作り手の予想を超えて、大きな時代のうねりの中に巻き込まれていったかを語りたいと思います。
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