鈍色の海で白く発光するように浮かぶコウちゃんは、人魚姫のようだった

『溺れるナイフ』(2016年)はつまり、すべての10代と、すべてのかつて10代だった人のための映画だ。生易しいときめきとか、共感とか、そんなものは一切求めない。ただ僕たちはあの頃、確かに世界のすべてを手に入れたような全能感と、何にもなれない絶望感で、いつも破裂しそうだった。そんなナイフで一筋一筋、自分に傷をつけていくような日々の中で、僕たちを救ってくれたのは、恋だった。

この人に愛されているという幸福感。この人のすべてがほしいという欲望。そのすべてが、あの頃の僕たちに生きている実感を与えてくれた。

この物語の主人公・夏芽(小松菜奈)とコウちゃん(菅田将暉)もそうだろう。東京の街でティーンモデルとして絶大な人気を誇る夏芽。その美貌から大人たちは夏芽にかしずき、同級生は羨望の眼差しでもてはやす。夏芽は、自分の特別さをわかっていた。そして、特別だからこそ退屈だった。自分の支配下にないもの。自分を征服してくれるものを、無意識的に求めていた。

それが、コウちゃんだったんだと、僕は思う。ふたりが初めて出会った、あの立ち入り禁止の海。鈍色の波に揺られ、白く発光するように浮かぶコウちゃんは、まるで人魚姫みたいだった。人気モデルである夏芽に、コウちゃんはまるで関心を寄せない。追いかけても、すぐに逃げる。だから、また追いかけたくなる。ずっと偶像崇拝の対象だった夏芽にとって、初めて崇拝という感情を味わわせてくれた相手。それが、コウちゃんだった。コウちゃんは、夏芽の"神さん"になった。

王子様のために泡となった人魚姫のように、コウちゃんは罪を背負った

だけど、ある事件によって、コウちゃんは"神さん"なんかではなく、何の力も持たない、ただの田舎の15歳であることが露見する。その傷は、夏芽以上に、コウちゃん自身に深い痕を残した。

考えてみれば、有名なフォトグラファーに見初められるほどの才能を持つ夏芽に対し、コウちゃんは言ってしまえばただの片田舎の少年だ。神主一族の跡取りとはいえ、それは家柄によるものであって、コウちゃん自身に何か特別な才能があるわけじゃない。ずっと自分が特別な存在であると信じていたコウちゃんは、蝋の翼を溶かされ、イカロスのように失墜する。

この物語は一貫して夏芽の視点から描かれていくけれど、あり余る才能を秘めた少女が少年に恋したことから、ただ恋しい人に認められ守られたいという凡庸さを目覚めさせていく前半の"ガールミーツボーイ"と、中盤の事件をきっかけに、虚像をはぎとられた少年が自身の無力さを呪いながらも、もう一度恋しい人を守るために疾走する後半の"ボーイミーツガール"の二重の構造を孕んでいる。

そうして辿り着いた結末は、少年がかつて持っていたかもしれない特別性を少女へと明け渡し、彼女の背中を押すものだった。人魚姫は愛する王子様のために声を失い、泡となった。コウちゃんは夏芽のために罪を背負い、すべての呪いを引き受けた。夏芽がスポットライトを浴びていくさまを、コウちゃんは"神さん"でもなんでもなく、潮の匂いが強い田舎の町で市井の人として見守り続ける。

それでも、きっと夏芽にとっては、ずっとコウちゃんは"神さん"なのだろう。海、山、空、雲、太陽、月。そんな誰のものにもならない大自然の名をふたりは叫びながら、バイクを走らせる。最後に呼ぶのはあなたの名前。確かにあのとき、あなたはすべてだった。そして今でも、あなたは世界のすべて。誰の胸にも残る特別な人を思い起こさせるラストシーンだ。

映画の空気を一変させた、重岡大毅の"凡庸さ"

そんな夏芽とコウちゃんを演じたのは、小松菜奈と菅田将暉。10代の特別性を表現する上で、このふたり以上は考えられない最高のキャスティングだった。

小松菜奈の持つ少女の憂鬱と倦怠、そして不可侵性。重たげな黒髪も、太めの眉も、物言いたげな瞳も、白くて細い手足も、何もかもが聖域のようで、多くの人が夏芽という女性に惹きつけられる理由が、何の説明を挟まなくても理解できた。

そして、色素の薄い金髪の菅田将暉には、畏れに近い神々しさが備わっていた。特に中盤、椿の花の前で夏芽とすれ違うときに見せた一瞬の眼差しは、氷の彫刻のように美しくて、このワンシーンだけで一見の価値があるほど。また、終盤の火祭りのシーンの舞いは、コウちゃんに内在する神格性を解き放つような狂気の美。暴力性とカリスマ性を持ったコウちゃんをこの世代で演じられるのは菅田将暉しかいない、と組み伏されたような気持ちになった。

他にも、垢抜けない少女から一転、女性のどろどろとした内面を、夏芽を睨みつける目で表現した上白石萌音のインパクトも大きかったが、個人的にこの映画のMVPはクラスメイトの大友を演じた重岡大毅に贈りたい。『これは経費で落ちません!』(NHK総合)、『知らなくていいコト』(日本テレビ系)と出演作を重ねるごとに話題を集めるジャニーズきっての実力派が、最初に俳優として注目されたのはこの『溺れるナイフ』だったと思う。

夏芽を温かく支え、友達から恋人へと関係を発展させていく大友。椿の花をおいしそうにくわえるさまも、高校に進学したとたん、眉毛を整えたことを何度も夏芽にからわかれるところも、田舎の少年らしい素朴さがある。重岡大毅のすごいところは、小松菜奈と菅田将暉が特別性で光を放ったのに対し、究極の凡庸さで輝いてみせたこと。そのあまりにも鮮やかなコントラストが、本作に含まれた特別性と凡庸さの構図をより一層強めた。

特に、バッティングセンターでアイスをかじりながら喋る大友の等身大感や(それもいかにも高校生が買いそうなソーダ味のアイスなところがかわいい)、バットを振ってはしゃぐ能天気さは(しかもネットの金属部分にバッドが当たって「やべ」と慌てるところがかわいい)、重岡の持つ凡庸さが光っていたし、風邪をひいた夏芽の部屋に見舞いに訪れたシーンの長回しのやりとりは、まるで台本がないみたいに自然でドキドキした。

きわめつけは、夏芽とふたりのカラオケシーン。あの胸をかきむしるような痛々しさとせつなさは、大友という愛すべきキャラクター像を重岡がここまでしっかり積み上げてきたからこそ。好きな女の子の前で最後までおバカな道化を演じ続けた大友の悲哀に胸が締めつけられながら、そんな大友を見て泣き笑う夏芽は、この映画のなかでいちばん優しい表情をしていた。

10代の息苦しいような痛みを気高く切り取った1本でありながら、「なんでコウちゃんなの? 絶対大友でしょ!」「いやいや、でもコウちゃんに惹かれる気持ちはわかる」と恋愛映画らしいモヤモヤも味わわせてくれる、抜け目のない本作。

あなたはコウちゃん派ですか? それとも大友派ですか?

(文・横川良明)

◆配信情報
『溺れるナイフ』
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(C)ジョージ朝倉/講談社
(C)2016「溺れるナイフ」製作委員会