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「名脚本家の傍らに名プロデューサーあり」と言われる。
傑作を数多く生み出す名脚本家には、常にその才能を最大限に引き出す名プロデューサーの存在が欠かせないという意味合いである。裏を返せば、名プロデューサーあっての名脚本家とも言えよう。
例えば――
三谷幸喜さんにおけるフジテレビの石原隆さん。
宮藤官九郎さんにおけるTBSの磯山晶さん。
2人のプロデューサーとも、まだ三谷さんや宮藤さんが駆け出しの頃からの付き合いである。その運命的な出会いがなければ、2人の天才脚本家は世に出なかったかもしれないのだ。
更に時代をさかのぼれば――
山田太一さんにおけるTBS(当時)の大山勝美さん。
倉本聰さんにおけるフジテレビ(当時)の中村敏夫さん。
向田邦子さんにおけるTBS(当時)の久世光彦さん。
――いずれのケースも共通するのは、脚本家とプロデューサーのどちらが欠けても、傑作は生み出されなかったということ。書き手(脚本家)と読み手(プロデューサー)双方の志が一致して、初めてドラマは世に出るのである。
その意味では、稀代の脚本家である橋田壽賀子さんを世に知らしめたのも、名プロデューサー石井ふく子さんの眼力と胆力の賜物と言っても過言ではない。
ドラマ『愛と死をみつめて』の前・後編騒動
石井ふく子さんと橋田壽賀子さんの絆を示す、有名なエピソードがある。
時に昭和39年(1964年)――。TBSの東芝日曜劇場(現・日曜劇場)において、難病で死に別れる恋人同士の往復書簡(実話)を書籍化した『愛と死をみつめて』(大和書房)をドラマ化するにあたり、石井プロデューサーは、まだ脚本家として独り立ちしたばかりの橋田さんに白羽の矢を立てた。すると、電話帳くらいの厚みの脚本が仕上がってきたという。どう見ても1時間の放送枠では収まらない。その時の2人のやりとりは、「渡る世間は・・・:橋田壽賀子石井ふく子対談エッセイ」(TBS東京放送)に詳しい。
石井「1時間枠なんだけれど」
橋田「でも切れません!」
石井さん、試しに一読してみると、なるほど、確かにこれは切れない。そこで、スポンサーの東芝のところへ行って(石井さんは、しばしば大事な案件の時は、自らスポンサーに足を運んだという)「これは素晴らしいホンなので、前・後編でやらせてください」と直談判した。しかし、先方は「1時間でないと困る」と首を縦に振らない。そこで石井さん、開き直って、本気とも冗談ともつかない脅し(?)をかけたという。
「ダメならナショナル劇場(※松下グループ提供)に持っていきます」
――ライバル会社に企画を取られたら堪らない。結局、東芝は石井さんの熱意に根負けし、同枠で初めてとなる前・後編を了承した。そして、大空眞弓、山本學の主演で放送したところ――これが大ヒット。なんと、お茶の間の反響で1年間に4度も再放送されることになり、"脚本家・橋田壽賀子"の名前を一躍有名にしたのである。
後に、橋田さんはこの時のドラマ化のいきさつについて、こう述べている。
「本当にすごいプロデューサーだと思いました。一生忘れません」
さまざまな脚本家たちとのタッグ
もちろん、石井ふく子さんのプロデューサー人生は、昭和33年(1958年)の『橋づくし』以来60年以上にも及ぶので、その間、橋田さん以外にも、映画監督の松山善三さんや才人・向田邦子さんなど、さまざまな脚本家の方と組まれている。
中でも、石井プロデュース作品の前半を彩るのは、何と言っても平岩弓枝さんである。石井さんが初めて平岩さんと出会ったのは彼女の直木賞受賞作「鏨師」を日曜劇場でドラマ化した時で、最初は原作者とプロデューサーの関係だった。その後、石井さんは平岩さんにテレビドラマの脚本を書くように勧め、何度か日曜劇場で書いてもらううち、大ヒットシリーズ『女と味噌汁』が生まれたという。同シリーズは1965年から1980年まで足かけ15年で全38話放送され、日曜劇場の最長寿作品となった。
そして、平岩さんと言えば、やはり一連の大ヒットホームドラマを置いては語れない。昭和43年(1968年)から『肝っ玉かあさん』を全3シリーズ、そして昭和45年(1970年)からは、今も民放連ドラ最高視聴率を誇る『ありがとう』を全4シリーズ手掛けられた。いずれも石井さんのプロデュースである。
1980年代以降、平岩さんは本来の作家業へ軸足を戻されるが、60年代から70年代にかけて、"平岩・石井"のタッグが生み出した数々の家族ドラマの名作たちが、「ドラマのTBS」のブランドを盤石にしたのは言うまでもない。
平岩さんの脚本について、後に石井さんはこう述べている。「ト書きが美しく、台詞が素晴らしく上手な方だった」。
一方、それと対照的な脚本家として、橋田壽賀子さんの名前を挙げて、その構成力を絶賛する。「長い台詞でも、そう感じさせない」――確かに、登場人物が大人数になっても、お茶の間を混乱させることなく物語を作れるのは、橋田さんの才能だろう。
平岩さんと橋田さん、2人のタイプの異なる脚本家の持ち味をそれぞれ引き出し、名作を数多く世に送り出した石井さんは、その意味でも卓越したプロデューサーと言って間違いないだろう。
『忠臣蔵』を"女性"の視点で家族ドラマに
かつて、東芝日曜劇場は100回ごとに記念作品を放送した。
例えば、800回記念では橋田壽賀子さんの脚本で、杉村春子、森光子主演の『心』を、1000回記念では倉本聰さんの脚本で、笠智衆、田中絹代主演の『幻の町』を――という具合に。いずれも大物俳優同士の共演が話題となり、記念作品に相応しい佳作であった。
そして、時に昭和54年(1979年)――。1200記念作品の担当が石井ふく子プロデューサーに巡ってきた。そこで石井さんは、かねてより温めていた、ある企画をドラマ化しようと考える。それは、女性の視点から捉えた「忠臣蔵」だった。当時の思いを、石井さんは近著『あせらず、おこらず、あきらめず』(KADOKAWA)の中で語られているので、少し引用させてもらう。
「浅野内匠頭に忠義を尽くし艱難辛苦の末に吉良上野介の首を討ち取った四十七士は、本懐を遂げて得も言われぬ達成感を味わったことでしょう。その結果、切腹して果てるのも武士の誉れです。けれど残された妻や子、母はそのあとどう生きていけばいいのか・・・。内匠頭の妻、瑤泉院の本心は仇討ちなど望んでいなかったのではないか、そう思いました。」
そう、石井さんは仇討ちの美談として描かれがちな忠臣蔵を、女性の側から描くことで、"家族"のドラマに仕立てようと考えたのだ。そこには、石井さんが10代の頃に経験した先の戦争への思いも重ねられた。あの時代、兵士として夫や父、兄や弟、そして息子を送り出した世の女性たちは、ただ辛抱するしかなかったと。そんな戦争の現実を、時代劇に置き換えることで表現したいと――。
ところが、そんな思いを何人かの脚本家に相談するも、当時の資料がほとんどなかったこともあり、なかなか興味を示してもらえなかったという。そんな中、石井さんの話を聞くなり、「それ、乗った!」と名乗りを上げた一人の脚本家がいた。橋田壽賀子さんだった。
一行から膨らむ物語で高視聴率を獲得
そうして、石井さんと橋田さんのドラマ作りへ向けた準備が始まった。まずは資料集めである。
しかし、忠臣蔵に関する講談本や小説、残された数少ない記録などを読みあさるも、四十七士絡みの女性で分かっているのは、瑤泉院と大石りく(大石内蔵助の妻)、おかる(内蔵助の妾)、堀部安兵衛の許嫁くらいで、なかなか、その他の女性の記述が見つからない。
そんなある日、2人は大石瀬左衛門に盲目の姉がいたというたった一行の記述を見つける。
「これだわ!」
石井さんは、この姉の話を膨らまそうと考えた。その時、思い浮かんだのが、懇意にしている女性歌手のお母様のことだった。
それは、以前、その歌手の公演で楽屋を訪ねた時のこと。ご本人は出演中で、お母様が一人だけ部屋に残り、何やら一心不乱に紙に文字を書いている。近づいてみると、娘の名前を繰り返し、繰り返し・・・。それは、娘の公演が無事に終わりますようにという願いを込めてのことだった。
石井さんは、このエピソードをドラマに取り入れようと考えたのだ。そうして、橋田壽賀子さんのペンによって、弟を討ち入りに出した姉・つねが見えない目で瀬左衛門の名を書き続けるという名シーンが生まれた。
かくして、同ドラマは、涙を堪えて討入りに送り出す家族、必死に止める恋人、理由も分からず恋人との別れを余儀なくされた娘など、四十七士に絡む様々な年齢、立場の女性たちの物語が描かれ、先のつねのシーンも香川京子さんの迫真の演技が話題となり、3時間の放送ながら、高視聴率を記録したのである。
東芝日曜劇場の単発ドラマ時代に幕
石井ふく子さんが、ご家族の事情でTBSを退社され、新たに同社と専属プロデューサー契約を結んだ詳細は、既に本コラムの中編で述べた。
禍を転じて福と為す――とは言わないが、結果として石井さんは社内で出世して、現場から離れることなく(恐らく石井さんの実績なら社長もあり得ただろう)、生涯プロデューサーとしてドラマ作りに携わることになった。これは、ドラマ界にとっては、ある意味朗報だった。
そう、石井さんは昭和49年(1974年)の退社後も、変わらず東芝日曜劇場の制作に関わり続け、同枠は激動の1980年代も生き延び、平成5年(1993年)3月28日をもって、37年間にも及ぶ単発ドラマ時代に終わりを告げた。最終回は、朋友である橋田壽賀子さん脚本の人気シリーズ『おんなの家』であった。
思い返せば、石井さんが初めて東芝日曜劇場のプロデューサーとしてドラマ作りに本格的に関わられたのが、昭和33年(1958年)のこと。以来、同枠は全1877回(単発ドラマ時代)を数え、そのうち石井さんがプロデュースした作品は、実に1000本以上。その間、彼女は昭和60年(1985年)には、既に「テレビ番組最多プロデュース」でギネスの世界記録に認定されており、名実共に世界を代表するテレビプロデューサーとなっていた。
この93年3月の時点で、石井ふく子さんは66歳。会社員なら定年を迎えているお歳だが、契約プロデューサーに定年はない。まさか、ここから石井さんの後半生の代表作が生まれようとは、誰が予想しただろうか。
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『渡る世間は鬼ばかり』始まる
1993年4月、単発ドラマとしての「東芝日曜劇場」が幕を降ろした翌月、ある連続ドラマの続編(第2シリーズ)が始まった。脚本は橋田壽賀子さん、プロデューサーは石井ふく子さん。そう、『渡る世間は鬼ばかり』である。
ご存知、『渡鬼』――。この第2シリーズがその後、連ドラとして10シリーズ、そしてスペシャルに形を変えて現在まで続く長期シリーズへの布石となる。連ドラは全て1年間(4クール)の放映で、現在、総回数は実に511話を誇るまでに――。
記念すべき第1話は、さかのぼること3年前の1990年10月11日だった。当初は、TBSの開局40周年の記念ドラマとして1年限りの放送予定だったが、好評を博して続編が作られたという。
物語は、岡倉大吉(藤岡琢也)・節子(山岡久乃)夫妻と、5人の娘たち――長女・弥生(長山藍子)、次女・五月(泉ピン子)、三女・文子(中田喜子)、四女・葉子(野村真美)、五女・長子(藤田朋子)ら、それぞれの家族の暮らしを描くホームドラマである。
思えば、90年代前半と言えば、テレビ界では80年代末に一世を風靡したトレンディードラマに端を発する恋愛ドラマの一大ブームが押し寄せていた時代。ドラマの視聴者層も若返り、20代から30代半ばまでの未婚の男女が好んで見る作品がゴールデンタイムを席捲していた。
そんな時代に、『渡鬼』は生まれたのである。企画にあたり、石井さんは橋田さんに「私たちにトレンディはできないわね。何をしたらいいの?」と尋ね、2人して「ホームドラマしかない」という結論に至ったという。その辺りのやりとりは、先にも紹介したお二人の対談本『渡る世間は・・・』に詳しいので、ここでは橋田さんの言葉を引用させていただく。
「私達には他の人たちの真似は出来ないし、自分の世界っていうのは二人とも持っているんだから、それで勝負するより仕方ないじゃない、だから右往左往するのはよそう。あっちに媚びたり、こっちに媚びたりせずに、ターゲットは35歳以上の夫婦に絞ろうっていうようなことを話して。」
――そう、お二人の世界。この割り切りが、現在まで続く長寿シリーズを生んだのだろう。実際、どんなに時代が進んでも、「家族」という存在は不変だし、その時代時代で、家族を巡るテーマも変わってくる。要は、"家族の今"を描くということ。石井さんは、近著「あせらず、おこらず、あきらめず」の中でも、『渡鬼』がマンネリに陥らずに長続きしている理由をこう明かしている。
「同じ家族を描いていても、登場人物が年を重ね取り巻く環境が変化すれば、描く内容は大きく様変わりしていきます」
実際、第1シリーズでは、岡倉夫妻の定年問題を柱に、5人の娘たちの家庭の問題(弥生=空の巣症候群、五月=遺産相続、文子=共働きと子育てなど)がそれぞれ描かれたが、シリーズが進む度に、各家庭が抱える問題もアップデートを重ねた。当初、嫁姑問題に嫁として悩んでいた五月(泉ピン子)に至っては、今では姑の立場で嫁姑問題に向き合っている。そう、時代は変わる。そして、忍び寄る「老い」の影――。
生涯プロデューサーとして
現在、石井ふく子さんは御年93歳。もちろん、今も現役のプロデューサーで、平日は定期的にTBSへ出社されているという。令和の時代になっても、昭和・平成から続く習慣は変わらないらしい。
その創作意欲も変わらず健在で、令和2年(2020年)も新春早々、ご自身がプロデュースするスペシャルドラマが放映されたばかりである。先の1月5日の新春特別企画『あしたの家族』(TBS)がそう。タイトルからも分かる通り、石井プロデューサーが生涯をかけて描いてこられた家族の物語だった。
ヒロインに宮﨑あおいさん、恋人役に永山瑛太さん。そして、ヒロインの両親を松坂慶子さんと松重豊さんが演じられた。まさに、豪華布陣――。令和最初の新春を飾るに相応しい、実に温かな家族ドラマだった。改めて、どんなに時代が進もうとも、家族が織りなす物語は不変であることを教えてもらった気がする。
"生涯プロデューサー"を掲げる石井ふく子さん。その創作意欲が衰える様子はない。さて、この次はどんなドラマを僕らへ届けてくれるだろうか。
完
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