2020年1月5日(日)夜9:00からTBSで新春ドラマ特別企画『あしたの家族』が放送される。プロデューサーを務めるのは昭和、平成、令和と視聴者の心に寄り添ったホームドラマを手掛けてきた石井ふく子さんだ。『渡る世間は鬼ばかり』など「女性」や「家族」にこだわるドラマ作りを続ける伝説のプロデューサー・石井さんが手掛ける作品の魅力に迫るコラム前編では、石井さんの生い立ちを辿ってきた。
誕生、石井ふく子プロデューサー
しかし、ここまではプロローグに過ぎなかった。そうやってテレビドラマを5本、制作助手として携わったところで、石井さんはTBSサイドからプロデューサーになるよう打診される。外部の人間に制作を任せる度量にも驚くが、自分を信頼してくれている証しだと、彼女はこの要請を受け入れる。かくして、プロデューサー・石井ふく子さんがここに誕生したのである。
記念すべき第1作は、昭和33年(1958年)9月7日、東芝日曜劇場の第93回『橋づくし』だった。原作は三島由紀夫の短編小説である。キャストは、香川京子に山田五十鈴、渡辺美佐子、京塚昌子ら豪華布陣が揃った。生放送のドラマは無事に終わり、評判も上々だったという。
しかし、感傷に浸っている時間はなかった。すでにその瞬間から、翌週の準備は始まっていたのである。当時の東芝日曜劇場は一話完結。一作ごとに、0からのスタートが毎週繰り返された。
日本電建の社員でありながら、東芝日曜劇場のプロデューサーも務める二足の草鞋の生活はそれから3年ほど続いた。石井さんがテレビドラマ作りに参加した当初、テレビ受像機の普及率は10%あまりに過ぎなかったが、昭和34年(1959年)の皇太子ご成婚のパレードを機に爆発的に増え、昭和36年(1961年)には6割を超えるまでに――。人々の間で、テレビの存在感が急速に増していった。
気が付けば、石井さんの二足の草鞋の生活はかなりひっ迫したものになっていた。この3年でテレビに携わる人々の数も仕事量も急拡大。自然、TBSに滞在する時間が長くなり、日本電建の仕事に支障をきたすようになった。その間、恩義のある、同社の創業者の平尾社長が亡くなったこともあり、石井さんの心は次第にTBSの方に傾きつつあった。
そんな矢先、日本電建にお家騒動が起きる。会社は混乱し、紆余曲折を経て事態収拾のために、かの田中角栄が社長に就任するなど、社内の環境が激変する。石井さんは今が潮時と考え、同社に辞表を提出した。そして――晴れてTBSの正式な社員となったのである。昭和36年(1961年)、35歳の転職だった。
「家族」にこだわり続ける理由
今でこそTBSの日曜劇場(旧・東芝日曜劇場)は連ドラ枠だが、昭和31年(1956年)12月の放送開始から平成5年(1993年)3月までの36年4ヶ月は、一話完結の単発ドラマの枠だった。
それゆえ、HBC北海道放送やCBC(中部日本放送)、MBS(毎日放送)、RKB毎日放送ら系列局が持ち回りで制作を担当する回もあった。HBC制作のドラマは札幌在住時代の倉本聰さんがよく脚本を書かれていたのを覚えている。系列局同士、いい意味で競争原理が働き、秀作が生まれやすい環境だった。
そんな中、本家のTBSは主に石井ふく子さんが制作を担当し、初期は『忍ぶ川』など文芸作品を扱うこともあったが、昭和40年代以降は、ほぼ一貫して「家族」にこだわったドラマ作りを続けてこられた。その理由について、石井さんは著書『お蔭さまで』の中で、こう述べている。
「殺人もなく、不倫もなく・・・ごく普通の人たちのありふれた生活を通して、人生の機微を、人間の喜びや悲しさを、可笑しさや辛さを描きながら、視聴者の人たちにどう感動してもらえるだろうかと(中略)家族や家庭というのは、それ自体、大きな社会ドラマなのだ」
また、近著「あせらず、おこらず、あきらめず」(KADOKAWA)の中でも、家族を描くドラマの意義について触れている。
「人のつながりが希薄になっている世の中だからこそ、その大切さをドラマや芝居で投げかけていきたいと思うのです」
また、ともすればマンネリと言われることに対して、映画『男はつらいよ』シリーズの山田洋次監督から掛けられた言葉に救われたと、同著で紹介している。
「でもね、石井さん。マンネリと言われるということはそれだけ多くの皆さんが見てくださっているということですよ」
そして――それを受けて、こう結んでいる。
「時代が変われば家族が抱える問題も変化します。そしてそれまで突きあたったこともない事態に直面して、当事者は一喜一憂しているのです。(中略)それは紛れもなくサスペンス、家族の中にドラマはあるのです」
大ヒットシリーズ続々
かように、東芝日曜劇場の石井ふく子プロデュース作品は、昭和40年代以降、一貫して「家族」を描いてきた。同枠は一話完結が基本だが、評判を呼んだドラマはしばしばシリーズ化されることもあった。以下は、その一例である。
『女と味噌汁』シリーズ(1965年~1980年/全38本)
脚本/平岩弓枝 主演/池内淳子
新宿の弁天下界隈で名を馳せる芸者・てまりは小料理屋を開くのが夢。そんな彼女が、得意料理の味噌汁で周囲の人々に幸せを運ぶ物語。共演に長山藍子、山岡久乃ら。
『天国の父ちゃんこんにちは』(1966年~1978年/全21本)
脚本/小松君郎 主演/森光子
夫亡き後、2人の子どもを育てながら、パンツの行商をして、たくましく前向きに生きるパンツ屋の女性の物語。
『下町の女』シリーズ(1970年~1974年/全8本)
脚本/平岩弓枝 出演/吉永小百合・杉村春子
年ごろの娘の桐子は、芸者の母・こうとの2人暮らし。母想いの娘と、娘の幸せを願う母だが、しばしば両者の思いはすれ違い・・・。
『おんなの家』シリーズ(1974年~1993年/全16本)
脚本/橋田壽賀子 出演/杉村春子・山岡久乃・奈良岡朋子
三姉妹が経営する東京下町の炉端焼き屋を舞台にしたホームドラマ。毎回、ゲストを巻き込みながら、姉妹喧嘩に花が咲く。
『ぼくの妹に』シリーズ(1976年~1984年/全10本)
脚本/松山善三ほか 出演/加山雄三・中田喜子
早くに両親を亡くし、11歳下の妹を親代わりに育ててきた兄と、近ごろ兄の干渉を疎ましく感じ始めた妹との微笑ましい兄妹物語。
ホームドラマ全盛期
さて、東芝日曜劇場で、数々の家族を描いた人気シリーズを生み出した石井ふく子プロデューサー。とはいえ、昭和36年(1961年)にTBSの正社員となって以降は、日曜劇場だけをやっていればいいワケではなくなった。時には、他の時間帯の連続ドラマも担当しないといけない。
連ドラも、当初は文芸作品を扱うことが多かった。例えば、昭和37年(1962年)には、当時新人だった石坂浩二さんを主役に抜擢し、三島由紀夫の『潮騒』をドラマ化している。石坂さんが役者として一躍注目される出世作となった。
とはいえ、連ドラにおいても、やはり石井さんのカラーが生きるのは「家族」を描いた作品だった。最初に反響を呼んだのは、昭和39年(1964年)から42年(1967年)まで3年間に渡って放送された『ただいま11人』である。主演の山村聰・荒木道子演ずる夫妻は子だくさんで、娘が7人、息子が2人の大家族。毎回繰り返される賑やかな食卓の風景が話題となった。
それは、どこの家庭でも見られる様々な問題を提起して、家族で解決する明るいホームドラマだった。子供からお年寄りまで一家揃って楽しめ、視聴率も高く、スポンサーにとっても魅力的なコンテンツ。それ以降、他局でもホームドラマが盛んに作られる走りとなった。ちなみに、七女役には一般公募で2,000人の応募者の中から、石井さんが中学3年生の女の子を抜擢。後に、石井作品の常連俳優となる沢田雅美さんである。
そして、このドラマの成功をバネに、石井さんは昭和40年代――連ドラの世界で2本のホームドラマを大ヒットさせる。
1つは、京塚昌子さんを主役に抜擢し、昭和43年から47年まで全3シリーズに渡って放送された『肝っ玉かあさん』である。そしてもう1つが、今も民放の連ドラ最高視聴率の記録を誇る国民的ホームドラマの『ありがとう』だ。
的ホームドラマ『ありがとう』
『ありがとう』は、昭和45年から50年に渡って、全4シリーズが放送された。石井ふく子さんは、人が人に感謝の気持ちを伝える「ありがとう」という言葉の大切さをドラマで伝えたいと、タイトルを最初に決めたという。
時に、世は高度経済成長真っ盛り。この年、日本では大阪万博が開かれ、物質的には恵まれた世の中になったが、一方で人と人とのつながりが希薄になりつつあった。石井さんは、そんな時代だからこそ、感謝の気持ちをごく普通のドラマの中で描きたいと思ったのだ。
さて、『ありがとう』と言えば、何と言っても、主役を演じた水前寺清子さんを置いては語れない。有名な話だが、彼女をキャスティングにこぎつけた石井さんのエピソードが壮絶である。これぞプロデューサーの鏡と言ってもいい。
ある日、新しいドラマの主演を誰にしようかと思い悩んでいた石井さん。たまたま、テレビで熱唱する水前寺さんの姿を見て、大きな口を開けて元気に歌う姿に一瞬で魅了されたという。「彼女しかいない!」
――とはいえ、当時、水前寺さんは超多忙な売れっ子歌手。レコード会社に出演交渉するも、拘束時間の長いドラマは無理と、けんもほろろに断られる。しかし、ここで諦めないのが石井さん。ならば、直接"本丸"に当たるしかないと、ある作戦に打って出る。
普段、水前寺さんには四六時中、担当マネージャーがピタリと一緒についていた。歌番組で訪れたTBSの局内でも、なかなか声をかける隙がない。だが、マネージャーは男性だった。ここに、石井さんは一筋の光明を見つける。その作戦とは――女性トイレの中で待ち伏せするというもの。事前に歌番組の収録スケジュールを調べ、スタジオから一番近いトイレに目を付け、物陰で見張った。いざ本番。休憩時間になると、本当に水前寺さんがやってきた。彼女が中に入るのを見届け、石井さんも後に続く。そして、本人が個室から出てくるところを捕まえ、一気に思いの丈を伝えたという。
後年、水前寺さんは石井さんに当時のことを回想して、「美人じゃないからいい」と言われたと笑いながら抗議したという。そして、出演を決めた理由をこう付け足した。
「美人じゃなくていいなら気が楽だと思った」
TBSを去る日
先にも記したが、石井ふく子さんは40代後半と、プロデューサーとして最も脂が乗り切った時期に、TBSを退社する。時に昭和49年(1974年)――『ありがとう』の第4シリーズ放送中の出来事だった。
その理由は、実に石井さんらしい、温かくも個人的な事情だった。お父様の伊志井寛さんが亡くなり、生前、寛さんがお母様と結婚される前に認知していたお子さんが、突如遺産相続に名乗りを上げたという。となると、寛さんの主な遺産は、赤坂でお母様と暮らしていた家になるので、これを売って、相応の遺産分けをしないといけない。そうなると、お母様は家から出ていかないといけない。
「父と母が住んでいた思い出深い家を売るわけにはいかない」
石井さんはそう決心した。しかし、昭和30年代に買った赤坂の家は、その後の都心の地価高騰で、資産価値にすると数千万円は下らない物件になっており、家を売らない限り、遺産分けの現金を用意するのは厳しかった。そこで――石井さんは最後の手段として、TBSの退社を決意する。その退職金と、足りない分はフリーになった後の仕事で払おうと考えたのだ。幸い、他局からいくつか仕事の引き合いが来ていた事情もあった。
そして、その決意を伝えるために社長室を訪ねた。奇しくも、時の社長は、かつて自分をTBSに誘ってくれた、あの諏訪博さんである。
「いまの身分に不満か」
「違います。実は・・・」
石井さんは包み隠さず、事情を全て話した。
「そうかい、伊志井先生なら、それくらいのことはあるだろう」
社長はすぐに理解してくれた。そして、会社の決まりで社員にお金は貸せないが、一旦辞めて、改めてTBSの専属プロデューサーとして契約して、その契約金を払おうと逆提案した。つまり、退職金と新たな契約金で、遺産分けのお金を全て用立てしようという。
「その代り、テレビはよそでやるな。絶対に許さん」
元より、石井さんに積極的に他局でやりたい意志はない。事情が許せば、勝手知ったるTBSが一番だ。
「わかりました。ありがとうございます」
石井さんは感激のあまり、深々と頭を下げた。
かくして、ここにTBS開局以来初となる"専属プロデューサー"が誕生した。東芝日曜劇場が単発ドラマとしての歴史に幕を降ろす、19年前の話である。石井さんの生い立ちから"名プロデューサー"への第一歩までを辿ってきたコラムの中編はここまで。後編では盟友・橋田壽賀子さんとの歴史を綴っていく。
(C)TBS
【参考文献】
「お蔭さまで」石井ふく子(世界文化社)
「想い出かくれんぼ」石井ふく子(集英社)
「あせらず、おこらず、あきらめず」石井ふく子(KADOKAWA)
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