「ドラマのTBS」という言葉がある。
昭和のテレビ黎明期から使われている業界用語の一つだが、テレビの開局で先行した、同じ民放の日本テレビがスポーツ中継やアメリカ仕込みのバラエティを売りにしたのに対し、当時、「東洋一のマンモススタジオ」と謳われた旧・Gスタジオを擁するTBSは、ラジオ時代から培ったドラマに一日の長があった。そんな「ドラマのTBS」を象徴する人物が、ドラマ界のレジェンド石井ふく子さんだった。
女性のお歳を書くのはあまり褒められた行為ではないが――ただいま93歳。驚くなかれ、来年、2020年の新春1月5日(日)に古巣のTBSで放送される新春ドラマ特別企画『あしたの家族』を手掛けられる、今なおバリバリの現役プロデューサーだ。
思い返せば、昭和の時代――テレビドラマで話題になるのは、いつもTBSのドラマだった気がする。中でも、一世を風靡したホームドラマの『肝っ玉かあさん』や『ありがとう』を始め、『女と味噌汁』、『僕の妹に』、『女たちの忠臣蔵』といった数々の名作を生んだ「東芝日曜劇場」など、オープニングのタイトルバックで、何度「プロデューサー 石井ふく子」のクレジットを見たことか。
――こう書くと、石井さんはTBSの重鎮として、ずっと同社の出世街道を歩んでこられたように思われがちだが、意外にも、石井さんがTBSの社員でいた期間はわずか13年と短い。しかも、入社したのも35歳と遅咲きである。辞められたのが40代後半と、脂の乗り切った時期というのも意外だ。もちろん、その後も変わらずTBSの仕事を続けておられるので、円満退社であったのは言うまでもない。
一体、伝説のプロデューサー・石井ふく子さんとは、どのような人物なのか。いかにしてドラマの世界を志し、何ゆえ一貫して「女性」や「家族」にこだわるドラマ作りを続けてこられたのか。ここは、彼女の生い立ちから紐解くことで、石井作品の魅力に迫りたいと思う。
特異な環境だった幼少期
石井ふく子さん、生まれは1926年(大正15年)9月1日である。なんでも「天一天上」の暦に当たり、この日に生まれる子は"人に恵まれて育つ"そうで、お母様がわざわざその日を選んで、帝王切開で出産されたとか。医療技術が今ほど発達していなかった時代背景を思えば、かなり勇気のいることである。
生家は東京の下谷区数寄屋町(今の台東区上野2丁目あたり)、いわゆる昔の花街である。祖父母は芸者の置屋を営み、石井さんのお母様(三升延)はそこの養女で、当代一流の人気芸者だったという。そして、ふく子さんを産んで、未婚の母になった。
近所には、料亭や置屋が軒を連ね、寄席もあり、踊りの師匠や落語家たちも暮らしていたという。そんな花柳界で育った石井さんは、幼少時から日本舞踊を習い、将来は踊りのお師匠さんを目指していたとか。普段の彼女は、母親が芸者の仕事で忙しく、もっぱら祖母と過ごす時間が多かったそう。典型的なおばあちゃん子だった。
人気芸者だった母親は、竹下夢二の絵のモデルを務めたり、新派の花柳章太郎や川口松太郎、伊志井寛らとも親交があったという。そんな社交好きな母親の背中を見て育った石井さんは、世間的な母娘の関係とは少々違ったと回想する。また、一人っ子の彼女は、いつも孤独と隣り合わせだった。そんな時、寂しさを紛らわせてくれたのが、踊りの稽古だった。
――そう、子供時代の石井さんの暮らしぶりは、いわゆる大家族に囲まれ、親子や兄弟が時に喧嘩したり、賑やかに笑ったり、ホロリと泣かされたりといった、よくある昭和の家庭とは趣を異にした。それゆえ後年、そんな普通の家族の姿に憧れ、他の人が当たり前と見逃してしまうような日常も"ドラマ"として描くことができたと、ご本人は述懐している。
生涯、ホームドラマにこだわり続けた石井さんの原点は、幼少時の特異な環境によって育まれたのである。
戦争と病気。そして"親子3人"の新生活へ
石井ふく子さんの世代は皆そうだが、10代の時期が、ちょうど日本が戦争へと突き進んだ暗い時代と重なる。加えて、石井さんは13歳の時に肺を患い、2年間ほど療養に費やすことになった。結果、あれほど好きだった踊りの道を諦めざるを得なくなってしまった。
後年、平和な日常を描くホームドラマにこだわり続けたのも、93歳に至る現在まで人一倍健康に気を使われているのも――多感な10代で経験した、それらの強烈な記憶が影響していると思われる。
とはいえ、そんな時代にあっても、一筋の明るい話題もあった。石井さんに新しい家族ができたのだ。お母様が、新派の俳優の伊志井寛さんと一緒に暮らし始め、当時、親戚の家にお世話になっていた石井さんもその家に移り、"親子3人"の新しい生活が始まる。彼女にとって、生まれて初めての"父親"だった。
戦後、長谷川一夫さんのお宅へ
そして、時代は終戦を迎える。戦時中、ツテを頼って山形へ疎開していた石井さん一家だったが、東京へと戻ると、かつて住んでいた家は空襲で焼け、住むところがなく、途方に暮れてしまう。
仕方なく、親戚や知人を頼り、短期間だけ居候させてもらう生活を続け、半年間で11回もの引っ越しを繰り返したという。そんなある日、父の寛さんが偶然、新宿で旧知の長谷川一夫さんと再会する。あの稀代の二枚目スターの長谷川一夫である。その辺りのやりとりは、石井ふく子さんの著書「想い出かくれんぼ」(集英社)に詳しい。当時、長谷川さんは役者仲間の寛さんを「あんちゃん」と呼んで、慕っていた。
「あんちゃん、どうしたの」
「実は家がなくてウロウロしてんだ」
「今、代々木八幡にとても広い家を借りて住んでいるんだけど(中略)よかったら来てください。にぎやかで楽しいですよ」
そんな次第で、晴れて親子3人は、長谷川一夫さんのお宅へ同居させてもらうことになった。ようやく、落ち着いた暮らしが戻ってきたのである。
時に石井ふく子さんは20歳そこそこ。すでに女学校は卒業しており、同居の身分で遊んでいるわけにもいかないと、職探しを始めるが、当時は就職難の時代。なかなか働き口が見つからない。困っていると、また長谷川一夫さんが助け舟を出してくれた。
「お前ね、新東宝でニューフェイスってのを募集してるから。合格すると、給料もらえるよ。受けてみなさい、推薦しとくから」
――かくして、受けてみたところ、見事に合格する(もっとも、大スター長谷川一夫の推薦だから、強力なコネだ)。女優デビュー作は、萩原遼監督の『大江戸の鬼』だったという。石井さんが演じたのは、ヒロインの高峰秀子さんの友人役だった。
とはいえ、幼少時から一人遊びに慣れていた石井さんにとって、華やかな芸能界はあまり馴染めなかったという。ニューフェイスということで、会社の催しがある度に駆り出されるが、社交的な場で常に陽気に振る舞うことを求められる世界に、次第に疲労感が溜まっていく。そうこうするうち、再び肺を患い、半年ほど入院する事態に――。
結局、それがきっかけとなり、2年ほどで新東宝を退社。しかし、この新人女優時代の経験は、のちにプロデューサーとしてドラマ作りに裏方として携わるようになってから、大いに役に立ったという。
就職。ラジオドラマの世界へ
昭和20年代も半ばになると、次第に世の中が平穏を取り戻し、石井家の親子3人もお世話になった長谷川宅を出て、渋谷に家を借りる。石井さんの体も回復し、再び職探しを始めたところ、新聞広告で日本電建という建売住宅の会社の公募を見つけ、晴れて採用される。時に昭和25年のことである。
最初は営業所勤務だったが、その異色の経歴や家族構成が社長の目に留まり、宣伝部に配属される。そこで手掛けた仕事が、TBSの前身であるラジオ東京で、日本電建提供のラジオドラマを制作することだった。
それが、稀代のプロデューサー・石井ふく子さんとドラマとの出会いだった。タイトルは『人情夜話』。放送は月曜から金曜の夜15分間の帯番組である。
当初、石井さんの仕事は、スポンサー側の人間としてスタジオ収録に立ち会うことだった。しかし、回を重ねるごとに局のスタッフと懇意になり、プロデューサーと企画についても話し合うようにもなった。また、父である寛さんを通じて新派の俳優たちとも付き合いがあったため、キャスティングにも自ら関わるように――。
気が付けば、石井さんはすっかりドラマ作りの面白さに目覚めていた。スポンサー側の人間でありながら、原作選びから脚本作り、キャスティングと、いつしか制作スタッフたちと同じ動きをするようになっていたという。
やがて、ラジオ東京は東京放送(その後TBS)と社名を変え、テレビ放送も開始する。そんなある日、石井さんがいつものようにラジオドラマの収録に立ち会っていると、TBSの諏訪博テレビ演出部長が近づいてきた。かの名作『私は貝になりたい』の演出を手掛けるなど「ドラマのTBS」の礎を築いた立志伝中の人物で、後にTBSの社長にもなる御仁だ。彼は石井さんの隣に並ぶと、声を落としてこう語りかけた。
「『東芝日曜劇場』の製作助手をやってみませんか」
――時に昭和32年夏。この一言が、プロデューサー・石井ふく子の人生を大きく変えることになろうとは、言われた当人ですら想像すらしていなかった。
二足の草鞋の生活へ
石井ふく子さん、最初は断ったと言う。日本電建に入社して7年、今や宣伝部の責任ある立場にあり、自身の一存で簡単に決められる話ではないからである。
ところが、TBSもさるもの。諏訪部長の上司の今道潤三編成局長(この方も後に社長になられます)が直接、日本電建の平尾善保社長のもとへ参上し、石井さんを譲ってほしいと頭を下げた。
自分があずかり知らないところで話が大きくなっていることに驚いた石井さん。慌てて、社長のところにはせ参じると、こう言われたという。
「今あなたに辞められては困る。だが、もしあなたに才能があるのなら、それをつぶすことになってしまう。やれるかやれないか、とにかくやってみなさい」
実に、人間味あふれる言葉である。この時のことを、石井さんは著書『お蔭さまで』(世界文化社)の中で、生涯忘れられない言葉と感謝を述べている。
但し、社長は条件をつけるのも忘れなかった。昼間は日本電建の社員として働き、夕方5時以降、嘱託としてTBSで働きなさいと。かなりハードな勤務体系になるが、石井さんに迷いはなかった。時に、32歳の決断だった。
それから、二足の草鞋の新生活が始まった。平日は夕方5時まで銀座の日本電建で働き、それから赤坂のTBSへ移動する。土曜日は半ドンなので、午後からTBSへ。日曜は終日、TBSで過ごした。当時のドラマはまだ生放送の時代で、日曜夜9時の東芝日曜劇場はこのタイムスケジュールでなんとかやりくりできたという。
と、石井さんの生い立ちから"名プロデューサー"への第一歩までを辿ってきたコラムの前編はここまで。中編では"石井プロデューサー"誕生やその後の活躍などについて綴っていく。
(C)TBS
【参考文献】
「お蔭さまで」石井ふく子(世界文化社)
「想い出かくれんぼ」石井ふく子(集英社)
「あせらず、おこらず、あきらめず」石井ふく子(KADOKAWA)
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