2017年に創立55周年を迎え、日本アニメの源流として日本アニメ界を創成期から牽引してきたアニメーションスタジオ「タツノコプロ」。『マッハGoGoGo』『科学忍者隊ガッチャマン』といったアクション作品から、『ハクション大魔王』『タイムボカンシリーズ』などのギャグ作品に、『昆虫物語みなしごハッチ』『けろっこデメタン』などのメルヘン作品とさまざまなジャンルで数多くの名作を生み出し、タツノコアニメとして多くの人々を夢中にさせ、近年も『KING OF PRISM』『Infini-T Force』『エガオノダイカ』といった作品を精力的に世に送り出し続けている。
後編となる今回もアニメーション監督の笹川ひろしに、オリジナルと原作付きのアニメ作品の違いや、ギャグSFアクションとして一世を風靡した『タイムボカンシリーズ』などについて語ってもらった。
前編はこちら:創立55周年!レジェンド笹川ひろしと紐解くタツノコプロの歴史
中編はこちら:YouTuber『はくしょん大魔王』あくびちゃんの原点――タツノコプロの黄金期を振り返る
タツノコプロが制作するアニメはオリジナル作品が主流だったが、やがて原作付きアニメの制作を行うことになる。その中で初の外部原作作品となったのが、1970年に放送開始となった川崎のぼる原作の『いなかっぺ大将』だ。
「当時、タツノコプロの中でも『うちはオリジナルがあるんだから、ほかの原作者の方の作品はやめておこう』という意見があったんですよ。でも、周りの人の努力と勧めで結局作った。『生みの親も分かるけど、育ての親もいいんじゃないの』と言われてね。作る人間というのには愛着が生まれてくるし、川崎のぼるさんからも注文はあんまりなかったですからね。それで、オリジナルのストーリーをシナリオライターに書いてもらって、ギャグもこちらがつけて作りました。というのもその時点では原作の本数がまだ少なくて、アニメのストーリーとして足りなかったんですよ」
数々のオリジナル・アニメを世に送り出して人気を博してきたタツノコプロ。順風満帆とも思えるその制作には、企画段階からオリジナル作品ならではの苦労も多かったという。
「原作漫画というのは何年も連載していて本が売れていれば、アニメ化したら絶対に見てくれるだろうと計算が成り立つんですよ。でも、タツノコプロみたいにオリジナルで作っているものは、やってみないと分からない。いくら企画書にうまいこと書いてキャラクターを付けてもね。それでも説得できない時は数分のパイロットフィルムを作ったりしたんですけど、結局決まらないんですよ。データがないから(笑)。熱意と説得で通すしかないんだけど、それでダメになった作品もいっぱいあって大損していますよ。果てしない戦いで、大変でした(笑)。今は会社の営業がデータも取っていて、お互いにやろうとした時にはご縁ができていて楽ですよ。我々の時は『とにかく面白そうだから作ってみよう!』でしたからね」
1975年の放送開始から、やがて大人気ロングラン・シリーズとなり、タツノコプロの名を不動のものにしたのが『タイムボカンシリーズ』だ。今でこそ、アニメ界に伝説のシリーズとして語り継がれているが、その第1弾となる『タイムボカン』には紆余曲折の産みの苦しみが存在していた。
「『タイムボカン』も3分ぐらいのパイロットフィルムを作って試写でスポンサーに見てもらったんだけど、気がついたらスポンサーの人達は試写室から消えていて、誰もいなかったんだよね。パイロットフィルムを作ってから3年か4年ぐらい寝かせていたんですけど、営業していた人がそれを引っ張り出してきて、もう1回見てもらったんですね。そうしたら運良く玩具メーカーの方に認められてスタートできたんです。企画を立てる時、今ではいろんなところにお伺いをたてないと決まらないけど、僕たちは自由に考えて、とにかく面白くなればみたいな、おおらかな気分でやってましたからね(笑)」
ギャグSFアクションとして、大爆笑ギャグにカッコかわいいメカと多彩な魅力を持った『タイムボカンシリーズ』。子どもたちだけでなく、世の大人たちも虜にしてブームを巻き起こした本シリーズは、主人公たちを差し置いて圧倒的な人気を誇った"三悪"と呼ばれる存在なしでは語れない。
「『タイムボカン』の場合はね、悪玉と善玉がいて、愉快で楽しい冒険ものを作ろうとしたんですよ。どんな悪人がいいだろうとなった時に、誰かが『3人組にしてボスを女の人にして、しかもボスが美人だったらどうですか?』と言い出して、吉田(竜夫)さんが『それ面白いな!』って言いながらその場で書き始めたんですよね。吉田さんはアメコミをよく読んでいて、それを取り入れたようで。僕としては、その頃に女優のブリジット・バルドーが人気でね。金髪でカワイイし。だから、『そういうのが親分だったらいいんじゃないですか?』と言って描いてもらったんですよ。他の2人は頭脳派と肉体派にして、すごく頭がいいんだけどどこか抜けている科学者と、何も考えないでただ力を自慢する人というキャラクターに決まったんです」
「特に『ヤッターマン』のドロンジョはすごいボスなんですけど、結局は間抜け。裏で糸を引いてるのはボヤッキーじゃないかというような気がしてくる。自分たちで爆発のボタンを押しちゃった時にボヤッキーとトンズラーがドロンジョをかばうんだけど、爆発するとドロンジョがボロボロになっていて、2人はドロンジョを盾にして助かる。そういうギャグというか、ずる賢い計算をしているそういう間柄なんですよ」
『タイムボカンシリーズ』は当初からシリーズものとして制作されていなかったが、結果的にシリーズ第1弾となった『タイムボカン』が大ヒットしたことにより、超人気ロングラン・シリーズとして始まることになった。
「『タイムボカン』を1年ぐらい予定してやっていたんですけど、視聴率がドンドン上がってね。これは化けるということで、1年たってチェンジするときに次は何にするかということになったんですよ。それで、せっかくやってもらったのにすぐ変えるというのは惜しいからということで、『ヤッターマン』をやろうということになったんです。三悪は面白いからそのまま残そうということになって、ヒーローとヒロインだけ変えて(笑)。また1年たって、次は何するかと言いながら8年間で7本やったんですよ。『ヤッターマン』から『オタスケマン』とか色々ね。そのたびにメーカーとも会議して、次回の企画を決めました。三悪は三悪なんですけどね。玩具メーカーの方のほうが熱心になってやって頂いたんで、続けられたんですね」
さらに、『タイムボカンシリーズ』では超合金のおもちゃが異例の大ヒットとなった。そこには、1972年にタツノコプロに入社して数々のメカを生み出し、やがて社外でも『機動戦士ガンダム』などのメカデザインに携わったメカニックデザイナー・大河原邦男の力が大きく関わっていた。
「子どもたちが超合金のおもちゃを買いに行くんだけど、売り切れていて泣いている子がいたんですよ。かわいそうだなと思いながらも嬉しくてね(笑)。その頃からですよ。玩具メーカーが"アニメをやれば売れる"となったのは。玩具メーカーは同じメカで1年やって、2年目になると次の新しいものが欲しくなるんですよね。『ストーリーは面白そうですけど、メカは何が出るんですか?』と。それで、大河原さんに来てもらって、メカ会議をやるんです。ある程度のストーリーラインがありますから、メカのイメージもだいたい決めているんですが、大河原さんが『こっちの方がいいんじゃないですか?』と提案してくれるんです。大河原さんって器用な人で、木型でメカの原型を作っちゃうんですよ。これをこう変えたら、こういう風に変形するというところまで考えてくれるんです。だから、大河原さんがいてくれるとメーカーを説得するには楽ですよね(笑)。その木型を見せたら、玩具メーカーの担当の方が『これはいい。いけるな! これで発進!』と言って、それで決まるんですよ(笑)」
最後に、笹川にとって「タツノコプロとはどんな存在か?」と聞いた。
「ずっと長いこと僕は最初から見ていますけど、"人"かな。そこにいる"人"ですね。タツノコプロ出発の頃の人たちはもう僕しかいないですけどね。亡くなった方もいますし、他で会社を興した方もいますし、他で成功している方もいっぱいいますから」
日本アニメ界を牽引し、多くの視聴者を夢中にさせてきたタツノコプロ。レジェンド笹川の言葉とともに、動画配信サービスParavi(パラビ)にて配信されているタツノコプロの過去の名作から最新作でタツノコ・ヒストリーを振り返ってみてはいかがだろうか。
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中編はこちら:YouTuber『はくしょん大魔王』あくびちゃんの原点――タツノコプロの黄金期を振り返る
(C)タツノコプロ
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