「あれ? お若い――」
失礼ながら、樹木希林さんが亡くなられて、僕が最初に抱いた感想がそれだった。
訃報の記事には「75歳」と書かれてある。言われてみれば、そうなんだけど、なんだか昔からずっと老け役を演じてこられたので、もっとお年を召されているイメージだった。
僕が初めて樹木希林という女優を知ったのは、1970年に始まったテレビドラマ『時間ですよ』(TBS系)のシリーズである。毎週水曜夜9:00から。同局の木曜夜8:00が、石井ふく子プロデュースの王道ホームドラマ枠(『ありがとう』『肝っ玉かあさん』など)なら、こちらは鬼才・久世光彦演出の異端ホームドラマ枠。後に『寺内貫太郎一家』や『ムー一族』へと連なる名物枠だ。希林さんはTBS時代の久世作品には欠かせない名バイプレイヤーだった。
『時間ですよ』の頃、希林さんはまだ「悠木千帆」という芸名を名乗っていた。彼女の役は、森光子さん演じる女将さんが切り盛りする銭湯「松の湯」の従業員の浜さん。普通に中年女優がおばちゃんの役を演じているように見えたが――今思えば、当時の希林さんはまだ20代。役作りだったのだ。同僚に健ちゃん(堺正章さん)や美代ちゃん(浅田美代子さん)がいて、3人で「トリオ・ザ・銭湯」を組み、コメディリリーフとして毎週ナンセンスな笑いを提供してくれた。中でも、浜さんのクールで味のあるボケは最高だった。
そう、今でこそコメディエンヌとして評価される女優は少なくないが(新垣結衣さんや綾瀬はるかさんなど、近年の人気女優は大抵コメディエンヌの顔も持つ)、当時、コメディ演技のできる女優は稀有な存在だった。その意味では、希林さんは日本のコメディエンヌの草分け的存在である。上にはせいぜいミヤコ蝶々さんがいるくらいだ。
希林さんの女優としてのキャリアは、高校を卒業した1961年、18歳で入った文学座に始まる。一般にその名が知れ渡るのは、1964年の『七人の孫』(TBS系)で、お手伝いさんの役を演じてからである。主演の森繁久彌さんとのアドリブのようなコミカルなやりとりが評判になった。後年、森繁さんは希林さんの芝居を見て、「あれは俺の演技だ」と語られたそうだが、言うなれば希林さんは森繁学校の卒業生である。
そんな希林さんの代表作と言えば、やはり1974年の『寺内貫太郎一家』だろう。部屋に飾ってあるポスターに向かって「ジュリ~!」と叫ぶのが口癖の個性的なおばあちゃんを演じたが、時に31歳。なんと息子の貫太郎役の小林亜星さんより10歳以上も若かった。この時、孫役で出演した当時人気絶頂の西城秀樹さんと懇意になり、以後、公私とも"おばあちゃんと孫"のような関係が続いた。それは、今年5月に秀樹さんが亡くなられるまで変わらなかったという。
思えば、希林さんは人気アイドルと組む機会が少なくなかった。『寺内~』に続く『ムー』シリーズでは郷ひろみさんと共演。挿入歌の「林檎殺人事件」をデュエットして、当時、「ザ・ベストテン」などの歌番組にも度々出演した。西城さんや郷さんのファンから嫉妬されなかったのは、ひとえに老け役に徹し、"安牌"と見られたからだ。――だが、そんな希林さんも、私生活では意外に(と言ったら失礼だが)モテたと聞く。
それは、都合2度結婚した相手の男性を見ても分かる。最初が俳優の岸田森さんで、2度目がミュージシャンの内田裕也さん。両人とも若い頃は痩身の二枚目で、希林さんが面食いだったのがうかがい知れる。ちなみに希林さん自身、若い頃は私生活ではサイケなファッションを好むなど、オシャレでキュートな女性だったと聞く。
彼女の女優人生を騒がせる一大事件と言えば、1977年に『日本教育テレビ』(NET)から『全国朝日放送』(現・テレビ朝日)へ名称変更する際の特番で、オークションコーナーに「売る物がない」と、自身の芸名「悠木千帆」を出品したことだろう。そして、たった2万200円で売却して、自身は「樹木希林」と改名。当時、すでに人気が定着していた芸名を売ることも驚かれたが、新しい芸名の奇抜さも世間の度肝を抜いた。ただ、当の希林さんは、そんな世間の騒ぎを楽しんでいるようにも見えた。
改名効果は早くも現れる。それはCMの世界だった。1979年から出演したピップエレキバンのCMは当時の会長と共演、その奇妙な掛け合いが人気を集めた。また、1980年にはフジカラーのCMで店長役の岸本加世子さんとのやりとり「美しい方はより美しく、そうでない方はそれなりに写ります」が流行語となる。
気が付けば、希林さんは芸能界における唯一無二のキャラクターを確立していた。若い頃は老け役をベースとしたコメディリリーフが多かったが、年を取るにつれ、次第に味のある等身大の役が増えていった。そして迎えた21世紀――改名以来となる2度目の転機が訪れる。
2004年、希林さんは網膜剥離で左目を失明していたことを明らかにした。女優生命の危機である。不幸は続く。2005年には乳がんを発症して手術するも、2007年に再発。さらに、2013年には全身にガンが転移していることを発表する。2000年代の希林さんは病との闘いの日々だった。だが――不思議なことに、病状を明らかにする度、彼女は自然体になっていった。そして、第二の黄金期とも言える役者人生を迎える。
2000年代、希林さんは類まれなる演技力か、脚本を読む力か、もしくはその両方か――次々と日本映画の佳作に出演する。日本アカデミー賞最優秀作品賞に輝いた『半落ち』(2004年)を始め、『東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~』(2007年)『歩いても 歩いても』(2008年)『悪人』(2010年)『わが母の記』(2012年)『そして父になる』(2013年)『あん』(2015年)『海街diary』(2015年)『海よりもまだ深く』(2016年)、そしてカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した『万引き家族(2018年)』――晩年は、是枝裕和監督作品には欠かせない名バイプレイヤーとなっていた。
2016年、希林さんは1本の新聞広告に登場する。それは、宝島社の企業広告で、希林さんが安らかな笑みを浮かべ、森の中の水面に一人、身を横たえているもの。英国の画家ジョン・エヴァレット・ミレイの名作「オフィーリア」をモチーフとした作品だ。コピーは「死ぬときぐらい好きにさせてよ」――一瞬ドキッとするものの、しばらく眺めていると、幻想的で美しくすら感じる。それはまるで、希林さんの心の声を投影しているようだった。
生き様が絵になる役者はいる。だが、死に様まで絵になる役者はそういない。希林さんは後者である。だから、ここは涙ではなく、あえて拍手で送りだすのが正解かもしれない。
――カーテンコールのように。
「時間ですよ」(C)TBS
「寺内貫太郎一家」(C)TBS
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