「普段通り、放送しましょう」
東日本大震災直後にみせたリスナーへの優しさ
永六輔(享年83)が1991年より24年半にわたり、パーソナリティを務めた生放送番組『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』から、"旅"をテーマにしたダイジェスト復刻版が、新動画配信サービス「Paravi(以下パラビ)」にてスタート。これを記念して2000年よりアシスタントを務めたTBS・外山惠理アナウンサーが、当時の裏話や永氏の知られざる素顔など、今も心に残る、とっておきの思い出を語った。
――産休に入られた堀井美香アナウンサーの後任として、同番組のアシスタントに起用されたそうですが、永さんの最初の印象はいかがでしたか?
ご本人にお会いする前に、周りの方々から「すごく怖い方」だと聞かされたり「大丈夫?」と心配されたりしていて「いったいどんな方なんだろう・・・」と不安に思っていたのですが、全くそんなことはなくて。近寄りがたいとか、変な威圧感とかぜんぜんない方で、ニコニコしているおじさま、という感じでしたね。確かに演出のお仕事ではかなり厳しい方だったらしいですが、私はまったく感じなかったです。
――現場で怒られたり、厳しく指導されたこともなかったですか?
永さんが亡くなられてから「最初の頃、よく怒られていましたね」とお手紙いただくのですが、私が気付いてないだけなのか、怒られた記憶がほとんどないんです。強いて言えば、芸人の方がゲストでいらっしゃって、おもしろいことをいろいろやっていただいたのですが、昔、笑い方が下品だと指摘されたことがあったので、必死に笑うのをこらえていたんです。そうしたら、CM中に「なんで笑うのを我慢するの?君の笑い声はとってもいいです。何も気にすることはない」って注意されて。その1回だけですね。それも、結果的には褒められているのですが(笑)。
――それからはもう、自由に笑うように切り替えたんですね。
そうですね。笑い声もそうですが、永さんのスタンスとして「もう何でもありです!」という感じだったので、リラックスできました。
――永さんと言えば博識で有名ですが、ついていくのは大変じゃなかったですか?
それもスタッフさんから最初に言われました。「永さんはとにかく勉強しない人は嫌いですから」とか「永さんは江戸時代が好きだよ」(のちにさほどでもないことが判明)とか、色々な情報をいただいて少々パニックになっていたのですが、結局、分からないことは「分かりません!」と正直に言った方がいいと。知ったかぶりしても長く人生を生きて来られた方にはすぐにバレてしまいますしね。ただ、そういうスタンスでやっていたら、リスナーから投書がたくさん来たんですよ。「なんて、物を知らないアナウンサーだ」って。
――その投書に対してどう対応されたのですか?
偶然知ったのですが、永さんが「彼女のいいところをぜひ、見てあげてください」と1枚1枚、丁寧にご返事を書いてくださったみたいで。でも「僕が返信しておいたよ」なんて一言もおっしゃらない。結局、永さんから直々にご返事が来たということで、少しずつ「外山はいい子なんだな」という風にリスナーの方々が受け取ってくださって。最初の頃は、結構バッシングがあったのですが、そのあとは永さんのおかげで暖かく見守ってくださるようになりました。ただ、そんなことがあっても永さんは「いいんです、君は知らなくても」と言ってくださって。だから、その言葉に甘えて毎週永さんの授業をずっと聞いていた、という感覚なんですよね(笑)。
――外山さんのそういう自然体なところが気に入ったのではないでしょうか?
外山:確かにそうかもしれませんね。半ば呆れた感じで「君は本当に自然体だねぇ」ってよく言われました。永さんはあまり崇め奉られるのが好きじゃなかったので、私みたいにオープンな人間を「面白い!」と思ってくださったのかもしれませんね。
――アナウンサーをやめたいとまで思ったとお聞きしましたが。
外山:私、永さんと会うまでは、アナウンサーは向いていないんじゃないか、やめたほうがいいんじゃないかって、ずっと思っていたんです。そのことを父に相談したら「10年はいた方がいい」と言われて。それでも、私がいることによって「会社に迷惑がかかるんじゃないか」など、色々思い悩んでいたのですが、永さんとお仕事をしているうちに、アナウンサーのお仕事がだんだんおもしろくなって。とくにラジオが大好きになりました。
――今だから語れる、永さんとの印象的なエピソードはありますか?
お茶目だな、と思ったのは、ラジオショッピングで金庫を販売していた時のことです。永さんは、その時金庫の中に鍵を入れたまま閉めちゃったんです。そのあと、子どもみたいにバツが悪そうに黙っている感じが可愛いなぁと思いました(笑)。あと、改めて尊敬したのは、永さんと言えば博識で有名でしたが、その知識を決して自分の手柄としてひけらかさない部分です。「こういういい言葉を○○さんから教えていただいた」など、すべてのことに対して「僕は誰かから学んだことをただ伝えているだけですから」というスタンスなんです。もちろん調べものもされていますが、人から生の声で聞いたことをお伝えする、ということをすごく大切にされていましたね。
――ブレないスタンスを持っていらっしゃる方でしたね。
一番すごいなと思ったのは東日本大震災の時ですね。震災の翌日が放送日だったのですが、そんな難しい状況の時に、永さんは「いつも通りやりましょう」と。こんなときだからこそ「いつも通り」がいかに人に安心感を与えるか、一番大切なことであるか、ということを初めて実感しました。不謹慎だと思った方も少しはいたと思いますが、私がもしリスナーだったら、震災の最中にこのラジオを聴いて、とても心が安らいだと思います。
――とてもラジオを愛していらっしゃいましたよね。だからこそ、生まれた発想だと思います。
それはすごく感じましたね。自分がお話を聞きたい方がいたら、そこに行って、お話を聞いて、自分でその声でお届けしないとダメだ!ということをずっとおっしゃっていて、かつ実践されていた方ですからね。体調が悪くなるまで続けていらっしゃいました。土曜日がラジオの放送日だったのですが、放送が終わるとすぐに旅に出て、金曜日の打ち合わせの日に帰っていらっしゃる。手帳と赤いサインペンで毎日気づいたことをメモしながら、毎週それを続けていたところがすごいですね。
――改めて、永さんから学んだことは何でしょうか?
例えば、ニュースなど見ていると「永さんならどう考えるかな?」という風に思うことが多くなりました。一緒にラジオをやっていた時よりも、永さんの存在を強く感じますね。もう一言では語りきれないほど学ばせていただきました。
――ラジオを心から愛していた永さん、リスナーに一番伝えたかったことはなんだったと思いますか?
わざわざ言葉に出して押し付けることはしませんでしたが「土曜日は、僕たちがここにいるからね」「いつでも遊びにいらっしゃい」「みんな仲間だよ」のような思いを、いつも心に持ちながら放送を楽しんでいましたね。体調が悪くて呂律(ろれつ)が回らなくなっても、最後まで自分の声で、自分の言葉で伝えようとしていた姿勢には、やはり心をうたれました。本当にラジオがお好きだったんだと思います。
『土曜ワイドラジオTOKYO「永六輔その新世界 特選ベスト~泣いて笑って旅物語篇~』は、動画配信サービス 「パラビ」にて配信中。
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