平成七年は震災の年だった

瓦解した映画館を見て、「もう、ここで映画を観ることはないのだろうな」と思った。

1995年1月17日5時46分52秒、兵庫県南部は大きく揺れた。しかもその揺れは、これまでに経験したことのないような激しいものだった。ビルや家屋だけでなく、阪神高速神戸線の高架も倒壊。火災の発生で、神戸の街は炎に包まれた。無論、繁華街である三ノ宮にあった映画館はすべて倒壊。アサヒシネマやビッグ映劇、東映会館、さらに、新聞会館の7階や国際会館の地下にあった大きな劇場も被害を受けた。中でも、阪急三宮駅と隣接した阪急会館は、爆撃を受けたかのような惨状。その姿を見るたび、「もう、ここで映画を観ることはないのだろうな」と覚悟し、涙が溢れたことは忘れられない。そして、街が、映画館が、瓦解したその光景は、これまで映画の中だけで観てきたフィクションの世界と似ていて、いつまでも現実味を帯びず、どこか非現実的な感覚を導いたのだったのだ。

震災で崩壊した神戸・阪急会館には複数の劇場が入っていた。また、建物が阪急電車の三宮駅と隣接しているため、電車の揺れる音を伴いながら映画を鑑賞したという思い出ばかり。『ユニコ』(81)や『ブレードランナー』(82)を観客のほとんどいない劇場で観たのも阪急会館だったが、爆破場面の衝撃か電車の揺れかが"曖昧"な状態で『ダイ・ハード』(89)や『キャプテン・スーパーマーケット/ディレクターズカット版』(93)を観たのも阪急会館だった。それゆえ、筆者にとって平成七年は、震災の年なのである。

その2ヶ月後、今度は東京で地下鉄サリン事件が発生する。その光景もまた映画の中の出来事のようで、どこか非現実的だったと世間で論じられた。

1995年前後の出来事を紐解くと、1991年の湾岸戦争によって戦場がリアルタイムに中継されるようになったというトピックスがある。映像の向こう側では多くの命が失われているはずなのに、どこか"実感"が伴わない。そんな感覚が人々の間に生まれ始めたのも、この頃だと指摘できる。筆者が震災を体験したのと同じように、東京に住んでいた人達にとっては地下鉄サリン事件が身近な恐怖であったことは想像に難しくない。一方で、僕にとって地下鉄サリン事件がそうであったように、当時の東京や神戸に住んでいなかった人達にとって、震災や地下鉄サリン事件は、テレビの中の出来事でしかなく、大変であることは理解できるものの、どこか"実感"がわかなかったという人の方が多かったのではないだろうか。それは、2011年に東日本大震災が起きた時、阪神淡路大震災の教訓が活かされていないことに対して個人的にはとても悔しい思いをしたからだ。

この、"実感"の乏しさなるものは、リアルタイムで情報が伝われば伝わるほど、如実になってくる。自分の目の前の現実と、テレビやネットによって伝えられてくる現実とが乖離すれば乖離するほど、"実感"は遠のいてゆくからだ。しかし"実感"が乏しいにも関わらず、入ってくる情報は視覚的にも強烈なものばかり。人々は精神的に疲弊し、リアルな現実はどんどん他人事になってゆく。現実を直視することを望まず、喉元を過ぎれば熱さを忘れてしまう。筆者はそんな社会にいつの間にかなってしまった感を持っている。

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平成七年前後に現代社会の混沌の源がある

行定勲監督が二階堂ふみ主演で実写映画化した『リバーズ・エッジ』(18)の原作漫画が連載されたのは1993年〜1994年だった。漫画の中で作者・岡崎京子は、死に対する"実感"や、生きることに対する"実感"のない若者たちの姿を描いていた。主人公・ハルナは、オゾン層の破壊についてテレビで報道されていることに対して「だけどそれがどうした?実感がわかない、現実感がない」と吐き捨てる。そんな彼女が、死体を目撃したことに衝撃を受けつつも"実感"がないという感覚を覚えるのは、本来は<生>を感じさせる装置となっていた<死>が、バーチャルな要素によって"曖昧"になったからなのだと解せる。その一例が、戦場をリアルタイムで中継されるようになったことなのだと思えるのだが、1993年には「バーチャファイター」のような対戦型格闘ゲームも誕生している。見ず知らずの相手と立体的な虚構の空間で戦うという身体感覚の変化もまた、向こう側にいる人間に対する"実感"を"曖昧"にさせたように思わせる。

また、平成七年にはテレビアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の放送も始まっている。このアニメーションは、視聴者に明確な答えを提示しなかったことによって、今なお様々な議論を生み続けている。物語の中で提示される膨大な情報の数々は、"曖昧"なことに対する意味づけを欲するための「衒学」なのだとも論じられているが、その姿勢に対して漫画家・榎本ナリコ(野火ノビタ)は、「自分たちの問題を描いた『エヴァンゲリオン』を他人事のように外から眺めている」という趣旨の指摘をしている。「平成映画興行史」の平成二年では、"ファジィ"="曖昧"という新語について説明しているが(※ 『松崎健夫の平成映画興行史―平成二年:そして僕たちは、PART2に熱中する』)、奇しくも"曖昧"さは、やがて"実感"を奪ってゆくことに繋がっていることを窺わせる。

阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件は、社会を不安にさせ、混沌とした時代を導く要因になった。また、この時代に起こったバブル経済の崩壊は、信じて疑うことのなかった経済成長に対する停滞・高度成長の終焉という理由のわからない不安も導いている。そしてさらに、1996年の労働者派遣法の改定は、結果的に終身雇用の崩壊をも導くことになる。当時のフリーターや派遣社員だった若者たちは、現在40代。現代の労働問題は、平成七年前後の出来事と密接に繋がっているのだ。劇作家・宮沢章夫はNHKの『ニッポン戦後サブカルチャー史』の中で「サリン事件の時、駅からゴミ箱が撤去され、封がされた。"危険であるかもしれない"というものは塞がれ、"とりあえず蓋をしておけばいい"と考えられるようになった」と語っていたが、現代社会における息苦しさの源は、"とりあえず蓋をする"と考え始めた平成七年あたりにあるのではないか?というのが筆者の見立てなのだ。

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それでも人は映画館へ通う

大きな天災や事件が起こった年は「映画の興行が芳しくない」という定説がある。平成七年は、阪神淡路大震災で神戸の映画館が閉鎖や廃館に追い込まれ、地下鉄サリン事件では、オウム真理教の麻原彰晃が「4月15日に新宿で何かが起こるXデー」と予言したことから、この日が初日であった『クレヨンしんちゃん 雲黒斎の野望』(95)や『95'東映スーパーヒーローフェア』(95)の稼働が都内の映画館で伸び悩むという事態を招くことに。ところが、年間の入場者数は、過去最低だった1994年から405万人もアップする好調な結果となった。この要因は、洋画が好調だった点にある。前年の冬休み興行でメガヒットとなっていた『スピード』(94)と、夏休み興行を牽引した『ダイ・ハード3』(95)のヒットがトータルで邦画の不調分をカバーしたのだ。つまり、阪神大震災や地下鉄サリン事件の直後の客足は鈍ったものの、やがて観客は観たい映画のために映画館へ通うようになったということなのだ。かくいう筆者も、そのひとりだった。

【1995年洋画配給収入ベスト10】
1位:『ダイ・ハード3』・・・48億円
2位:『スピード』・・・45億円
3位:『フォレスト・ガンプ/一期一会』・・・38億7000万円
4位:『マディソン郡の橋』・・・23億円
5位:『ウォーターワールド』・・・21億
6位:『アポロ13』・・・20億円
7位:『マスク』・・・18億円
8位:『アウトブレイク』・・・13億円
9位:『フランケンシュタイン』・・・10億5000万円
10位:『今そこにある危機』・・・9億円
(※現在は興行収入として計上されているが、当時は配給収入として算出)

8位にランクインした『アウトブレイク』(95)は、エボラ出血熱を超える致死性のあるウィルスの危機を回避しようとするパニック映画。日本では地下鉄サリン事件直後の4月29日に公開されたが、昨今の風潮からすると「バイオ危機を想起させる」として公開中止、或いは、延期になってもおかしくない内容の作品だった。だが逆に「危機に対する現実味というタイミングが功を奏した」と当時の「キネマ旬報」誌でも分析されているように、多くの観客を動員した。

『アウトブレイク』の前半、パンデミックが起こるきっかけの場所として映画館が登場する。映画の中の観客は、トムとジェリーが麻疹によって隔離されるというオチの「トムとジェリー」の短編「Polka-Dot Puss(邦題「ウソをついたら」)」(49)を幕間で鑑賞しているのだが、この時、咳をした観客がウィルスを映画館内に撒き散らすという過程が視覚的に表現されていた。咳をすればウィルスが拡散される。映画の中の現実は、映画館の外にある我々の暮らす現実とシンクロ。筆者が鑑賞した映画館では、咳をするのも憚れるような緊張感がその場面で劇場内に漂ったことを忘れることができない。フィクションの世界によって、現実世界の"実感"を得る。映画を後追いではなく、リアルタイムに体験することの意味のひとつが、ここにはある。

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平成七年は"映画誕生100年"だった

1895年12月28日、フランスで<映画>が誕生した。リュミエール兄弟が、パリのグランカフェ地階・インドの間で<映画>を上映したことを、映画史では"映画の誕生"と呼んでいる。つまり、平成七年(1995年)は"映画誕生100年"にあたる年でもあったのだ。一方で、<映画>そのものは、発明王のトーマス・エジソンが、その前年に"キネトスコープ"として発明している。であるにも関わらず、"映画の誕生"はエジソンではなく、リュミエール兄弟による"シネマトグラフ"だとしている。その理由のひとつは、映画を「スクリーンに投影された映像を不特定多数の人間が同時に鑑賞する」ものだと定義している点にある。エジソンが発明した"キネトスコープ"は、箱の中を覗き込むことによって動画を観るという趣向のもので、その機構を発展させたものが映写機によってスクリーンに映像を投影するリュミエール兄弟による"シネマトグラフ"だった。

ここには、昨今Netflix作品をはじめとする「インターネットでの配信を意図した作品」を映画と呼ぶか否か?という問題に通じる定義の考え方がある。エジソンが発明した"キネトスコープ"は、ひとりで箱を覗き込むことによって映像を観るという性格があることから、例えば、スマートフォンやタブレットで映画を見ることに近いと言える。つまり、"映画の誕生"がリュミエール兄弟であるとされている以上、スクリーンに映像を投影する<興行>を意図しない「インターネットでの配信を意図した作品」を映画と呼ぶには、映画史的な裏付けが足りないのだ。筆者は映画史が専門なので、"映画の誕生"がリュミエール兄弟ではなくエジソンだと世界的な定義が成されない限り、「インターネットでの配信を意図した作品」を映画と認めることができない立場にある。

このように、時代の経過や価値観の変化によって定義が"曖昧"となる事象は、映画においてもいくつかある。例えば、日本で初めて映画が上映された地に関しては、大阪や京都、神戸など諸説ある。神戸の場合、1896年11月25日から5日間、"キネトスコープ"による映画が一般公開されたことを"日本映画発祥"の理由に挙げ、1987年には映画記念碑が建立されている。神戸映画資料館の安井喜雄館長は「"キネトスコープ"が好評だったため、公開期間が12月1日まで延長され、これが映画料金を割り引く"映画の日"の由来にもなった」と語っている。映画館での映画興行を牽引する日本映画連合会(現・日本映画製作者連盟)が、エジソンの"キネトスコープ"による映画を発祥にしたこの話を基準に"映画の日"を制定しているのだから、話はややこしい。「インターネットでの配信を意図した作品」を映画と呼ぶか否かという問題も、感覚的な想いによるものではなく、時代の変化を見極めて慎重に定義する必要があると思わせるエピソードだ。

震災で倒壊した阪急会館は、754席あった1スクリーンを2スクリーン計309席の劇場に縮小して、平成七年の12月に早くも再建された。その後、閉鎖されていた映画館も続々と営業を再開。例えば、神戸国際松竹は場所を移転して"三宮シネフェニックス"と名称を変えた。"フェニックス"は不死鳥のことだが、兵庫県宝塚市で暮らした手塚治虫の「火の鳥」にちなんだ名称でもある。どんな時でも"日本映画発祥の地"である神戸の映画の灯を絶やさないという想いは、現在の劇場にも受け継がれているが、残念ながら震災前にあった映画館は2011年までにすべて閉館。映画館の空間的な歴史は途絶えてしまった。

現在営業している神戸の映画館がそうであるように、1990年代になって単館の映画館からシネコンへと興行・上映形態が激変したことも、閉館の理由に挙げられる。それまでも複数のスクリーンを持つシネコン形式の映画館は存在していたが、1993年にワーナー・マイカル・シネマズ海老名が開業。アメリカ式の外資によるシネコンが日本へ初めてやって来たのだ。北米での成功例に倣って、ショッピングモールに併設されたシネコンは、映画館離れしていたファミリー層や中高年層を集客してゆくこととなる。

大きな天災や事件が起きながらも平成七年の興行が好調だったことと、単館の映画館での上映がシネコン中心の上映へと移行してゆく端境期であったこととは無縁ではない。また、ウィンドウズ95日本版によってインターネットが一般化してゆくのも平成七年。前年に法人登記されたAmazonが、アメリカでオンライン書店の事業を開始したのも平成七年だった。社会的な混沌と社会システムの変化の源は、平成七年あたりにある。その偶然を疑う余地はないだろう。

(映画評論家・松崎健夫)

出典:
・ 「キネマ旬報ベスト・テン85回全史1924−2011」(キネマ旬報社)
・ 「キネマ旬報 1996年2月下旬決算特別号」(キネマ旬報社)
・ 「リバーズ・エッジ」岡崎京子(宝島社)
・ 「大人は判ってくれない」野火ノビタ(日本評論社)
・ 「NHKニッポン戦後カルチャー史」宮沢章夫(NHK出版)
・ 一般社団法人日本映画製作者連盟
http://www.eiren.org/toukei/1995.html
・ NIKKEI STYLE 大阪・神戸・京都に「日本映画発祥の碑」本当はどこ?
https://style.nikkei.com/article/DGXZZO43148210Z20C12A6000000/
・毎日新聞 2007年5月17日 OS阪急会館:60年の歴史に幕