第1回 動物も親の後を継ぐのか!?

「ヤクルトのシロタ株はすごい」という謎の雑談からスタートした記念すべきテイダンの第一弾。今回はシンガーの土岐麻子さんと、動物行動学者の新宅広二さん、そして、放送作家をやっています、私、天明晃太郎が集まってのテイダンです。本来は漢字で「鼎談」ですが、テーマは決めるものの肩肘張らずにみんなでおしゃべりしようというイメージでカタカナにしてみました。第一弾のテーマは「動物と教育」。

親から受け継ぐものとは?

天明:今後もヤクルトを飲むようにします(笑)。じゃあ始めましょうか。よろしくお願いします。今回動物と教育っていうテーマで考えたのが、以前、新宅さんと雑談している時にお子さんの話になったんですよね。その時、子どもの教育の方が動物よりも大変だったという話をしていて。一度どこかでこのテーマで話をしたいですねっていうところからスタートしたんです。

新宅:自分の子どもには自分と同じような分野に進んで欲しいと思いますが、それがヘンな圧をかけてしまうかもしれません、ということで。土岐さんのところは後を継がれていますよね?

土岐:そうですね。同じ音楽業界で。

天明:親の職業を継ぐ人と継がない人っていますよね。自分と近しい人がやっていることを引き継ぐというのが生物学上は理に叶っていると思うんですが、案外、そうなりませんよね。

新宅:それが天明さんと話していて面白いなと。いろんなパターンがあると思うんです。なりたくてなれないとか、最初からなりたくないというパターンもあると思うんですね。それは嫌っていうことじゃなくて、自分の親を意識しすぎなのかもしれません。

天明:僕の家、家族が全員理系なんですが、僕だけ文系になっちゃって。親の仕事を意識しすぎっていうのはたしかにあったかもしれないですね。自然に理系の道に進むんだっていう空気感がすごく嫌だったのかもしれない、僕の場合は。

新宅:職業の選択が許されているのは人間の特徴だと思うんですよね。その辺りの自由が動物にはあまり無い気がしていて。

天明:たしかに動物も「俺は肉じゃなくて草を食うぞ!」ってなりませんよね。

新宅:突然ね。しかも身近な人を意識しすぎて「後を継がない」っていうケースは、なかなか無い。

天明:土岐さんの場合は自然だったんですか?

土岐:今のお話を聞いていたら、私はどちらかというと、親と同じ仕事を選んだっていう意識ではないですね。

天明:ジャンル違いますもんね。

土岐:父がやっているジャズやフュージョンというジャンルの音楽を小さい時から楽しんで聴いていたし、ライブも観に行ったりしていたんですけど、それは親のものであって私のものではない。それは反抗しているわけでも卑屈になっているわけでもなく自然にそう認識していました。はっきりとお父さんはこれがすごい人、でも私は別の人間だという気持ちが小さい時からあったので、私の分野ではないという感じがどこかにありましたね。

天明:それは明確に違っていたんですか?

土岐:そうですね。母がエレクトーンをやっていたので、私をピアノ教室に行かせたいと思っていたようなのですけど、父は反対だったようで。親からの提案で何かを習わせるのは逆に嫌いになってしまったり苦痛に思ってしまったりすることがあるから、自分が好きな音楽を嫌いになってしまうきっかけを与えたくないと。だから自分から言い出すまでは習わせないということだったみたいです。結局私は音楽の教育を受けず、独自に中学のバンドブームで目覚めたという。入口が全然違いますね。バンドブームで出会った音楽は自分のものという感じがしていました。

新宅:たまたま同じ職業のジャンルだったという感じだけど、そんなに違うんですね。

土岐:そうなんです。音楽が好きだという気持ちだったり、いろんな音楽を小さい時から聴いていたので耳で得た情報はたくさんあって、それは今の仕事を選んだ上ですごく財産になっています。ラッキーだなと。

人間にのみに与えられた能力

天明:やっぱり音楽を子供の頃から多く聴いていた人って、音楽の能力を持っている印象があります。僕の友達のミュージシャンのお子さんとか、なんでこんなに音感がいいんだろうと思ったりすることがあります。子供の頃に「音楽」と触れ合った文化的体験が能力として継承されるのが人間の特徴ですよね。

新宅:僕は動物としての人間が優れている所が二つあると思っています。一つは「笑い」があること。「笑い」は動物行動学的にもっとも難しいんです。笑う、笑わせる、「笑い」を使ったコミュニケーションは非常に難しい。これを自在に使いこなせる動物という意味で人間は優れています。もう一つは音楽なんです。これほど音階などを細かく作れて、一緒に合唱したりもできる動物は人間しかいない。動物に人間の歌声を聞かせても、動物は「負けた」って絶対思うはずです(笑)。

天明:歌声が綺麗とされる動物は人間よりも優れていることになりませんか?

新宅:歌が上手いといっても、しょせん小鳥とかサルの一部とかクジラとかで、使っている音階もせまいし、人間の音楽の歴史や感動させるまでにはたどり着いていないですよね。あくまで繁殖のため、雄が自分のことを「かっこいいだろう」と鳴くレベルなので。人間の音楽はそういうものじゃないですよね。

天明:歌が上手い、下手ってどうして生まれるのでしょうか?

新宅:自分が上手いか下手かをわかるわけじゃないですか。プレイヤーとしての上手い人は一部にいるけど、この素晴らしさを理解できる人は必ずしもプレイヤーである必要はないですよね。音楽の素晴らしさを評価できて共有できることは、同じくクオリティーの高い生物だと思います。動物にはそれがないですからね。

土岐:今のお話、自分の体験でもわかりますね。小さい時になにげなく自分が歌ったものを親が録音していて、初めて自分が歌っているのを聴いたんです。すごく下手でびっくりして。だからそこから歌わないようにしてたんです。

天明:それを聴いたのはいくつくらいですか?

土岐:幼稚園上がる前とか上がった後くらいだと思いますね。ピアノをでたらめに弾きながら歌っていて自分では成立しているつもりだったのに、客観的に初めて自分の声を聴いた時に、これは私が思っている音楽ではないと。こんな風にしか歌えないんだったらもう歌うのやめようと(笑)。それで小学校に上がっても中学に上がっても、歌は絶対に歌わなかったです。

天明:子供ながらに「これは普段、自分が聴いている音楽じゃない」と。

土岐:自分が思うような表現ができないというか。良い音楽というものが自分の中にいろいろあるわけですけど、そこに到達できていないもどかしさがあって。

天明:知らないうちに自分の中にちゃんとした「物差し」ができていたんですね。新宅さん、一方、もっと意識的な教育にはどんな意味があると思いますか?

新宅:私は教育というのは才能が無い人にとって救いがあると思っていて。才能がある人は教育の必要がないわけですよ。教育っていうのは才能が無い人をサポートするための素晴らしいツールになっている。例えば自分が歌や演奏ができなくても、音楽という歴史や意味などを学ぶことができる。クラシックを何の情報もなしで聴くのと、少し教えてもらって聴くのとで深みが変わる。ライナーノーツを読むか読まないか、どういう思いで作っているかという情報があると見え方が変わるじゃないですか。見方を教わるというのが広い意味での教育の一つになっている。

天明:アートもそうですよね。「この絵は作者が悲しい時に描いたんだよ」って教えてもらうと。

新宅:そう見えちゃう(笑)。

天明:だから知るとか知識があるということは、エンターテインメントを楽しむ上で必要ですよね。

新宅:直感的に楽しいものを楽しめる人もいると思うし、それでいいと思うんですよね。でも知らない分野に入っていく時や興味がこれまでなかったものに新しく踏み出す時に、ちょっとした情報のアシストがあるといいですよね。

3人の「テイダン」はまだまだ続きます!

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