<AIが可視化する人間の本質>
瀧口:安田先生は、人間を人間たらしめているものについては、どうお考えですか?
安田:僕がAI研究の面白い点だと思うのは、AIで、ある種賢い、作業効率の高い結果を見ることによって、人間とのギャップがあれば、人間はなぜAIのように効率的に動いていないのか、何の目的意識を持って動いているのかが逆算でわかるのは面白いと思います。有名なAIの学習の一つに、ブランコを漕ぐAIというのがあるんです。人間は普通、立ち漕ぎをするときに、下がっていくときに漕ぐそうです。戻るときには膝を曲げないですよね。だけど、AIに学習させると、2回膝を曲げるんです。それが一番、振幅を最大にさせるらしいのです。そういうのを見ると、人間はなぜ戻るときには膝を曲げないのかという疑問が出てきますが、それはやはり、曲げると怖いとか別の理由があるんです。ただ単に振幅幅を大きくするというだけでなく、そこで得られる何かしらの快感を最大化して、恐怖心を最小化するということが人間の背後にはあるんですが、それはAIとの違いを見てみないとよくわからないことですよね。
奥平:比較対象することで、人間の本質や人間にしかできないことが、よりクリアに浮かび上がってくると?
<AIと経済を支える「認知革命」>
安田:そうでうね。先程イマジネーションが大切だというお話がありましたが、これは、皆さんもご自宅にあったり、本屋さんで見たことあると思いますが「サピエンス全史」という大ベストセラーになった本です。この本の中で、もっとも著者が強調していることが「人がなぜ動物からホモサピエンスになったか。重要なのは認知革命だ」といっていて、それはまさにイマジネーションやフィクションを共有できるようになることだと思います。コンセプトを共有するためには、もちろん言語が必要なわけですが、認知・運動だけだった動物から、記号・言語を駆使するヒトになることによって、いろんな多くの人たちとビジョンを共有することができるようになる。そうすると、例えば経済活動では、お金が使えるわけです。お金は動物は使えるようにならない。なぜかというと、紙切れだったり、金属の塊を持って行って食べ物をくれと言っても、ふざけるなで終わってしまう。ヒトだったら、この紙切れを将来使うことができる、受け取ってくれるヒトがいるという形で、ある種のフィクションを共有できる。
奥平:ああ、そうか。紙が例えばご飯に変わるとか、紙が洋服に変わるという、それがまさにフィクションということなんですね。
安田:そうですね。そういったストーリーを共有できて、初めて我々が当たり前に行っている経済活動が機能する。もっと言うと、お金自体もなくてもいいかもしれない。貸し借りみたいなもので、今日あなたに何か貸してあげる。将来、返してくださいね。これもストーリーなんですよね。
瀧口:信用ですね?
安田:信用です。信用がうまく好循環をもたらすことによって、産業革命以降、我々の経済はものすごく大きくなってきた。このAIが今、ヒトにちょっとずつ知能面で近づいてくるというところが、経済の背後に隠れている仕組みと繋がっている。
瀧口:まさに先程おっしゃっていた、想像力が大事というところですね。
<記号・言語系vs認知・運動系 どっちが大事?>
松尾:今、安田先生がおっしゃったこととは違う言い方をしますと、普通、この記号・言語系というのはなぜあるのかというと、認知・運動系を助けるためにあって、より長期のプランを立てるためにあるんです。どういうことかと言うと、認知・運動系だけだと、数秒から数十秒ぐらいの短い行動しかできないんです、ループが小さいので。ところが、遠くの川まで水を飲みに行こうと思ったときに、あの山を超えて、橋を渡り、降りて行って水を飲もうみたいな、抽象化して考えないといけない。そうすると、記号・言語系が重要になってくる。ですから、おそらく高等な哺乳類は、記号・言語系の原始的なものは持っていると僕は思っています。ところが、人間の場合に一番違うのは、記号・言語系が認知・運動系を呼び出すということなんです。これは普通、よくないんですよ。りんごがないのに、りんごを思い浮かべられることは、生存にとってマイナスでしかない。
瀧口:なぜですか?
松尾:だって、りんごがないのにりんごって思っている間に、虎が来て食われちゃいます。
奥平:余計なことは考えない方がいいと。
松尾:余計なことを考えているわけなんで、普通に考えるとマイナスなんです。ところが、人間の場合は、集団として結束したり、そこに社会システムを構築するために幻想を信じた方がいい。幻想を信じた方が、結果として種としての生存確率が上がるということが起こって、この記号系が主体になって、認知・運動系を駆動するという逆の働きが生まれてきたんだろうと。だから、今の人間の我々は、記号・言語系を知能の本質と思う癖があって、本当はどっちも大事なんです。どっちも大事なんですが、なぜか数学ができる人の方が頭がいいと思ってしまうんです。でも、別に芸術ができたり、いろんなことができることもすごいことなのに、なんとなく、記号・言語の方が優位だと考えやすい特性を持っている。
安田:面白いですね。世の中の生き物が、認知・運動から始まって、高等哺乳類になって記号・言語という機能がついた。人間は記号・言語ばかりを考えるようになり、ある意味、頭でっかちになっている。生き物の中で、極めてAIに似ているということですね。
松尾:そうなんです。それで、今までのAIの研究も結局、記号・言語が重要だと思いすぎていたばっかりに、認知・運動の重要性を意識できていなかった、あるいは技術的にできなかった。
瀧口:それは研究者の方も記号・言語系こそ、人間の本質的に重要な部分だという認識があったからですか?
松尾:そうなんです。人工知能の研究は1956年から始まっていますが、初期の研究はほとんどが記号・言語系のものなんです。記号・言語系の処理で、例えば数学の定理を証明するようなAIを作ったり、チェスを打つようなプログラムを作ったり、医療の診断をするようなプログラムを作ったり・・・これは全部記号・言語の話です。ですが、途中から、実は認知・運動系も重要なんじゃないかという派閥も出てきて、身体性の重要性やパターンの重要性ということに重点を置く人もいました。ただ、なかなかうまくいかないので、また記号・言語に戻ってしまったんです。ただ、認知・運動が大事だというのは、コンセプトとしては間違っていない。
安田:当時の技術ではそこまで繋げられなかったと。
松尾:そう、追いついていなかった。
瀧口:では認知の部分の研究が進んだのは、画像認識するセンサーが発達してきたからと考えられるんですか?